島田秀夫とは? わかりやすく解説

島田秀夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 01:10 UTC 版)

島田 秀夫
名前
カタカナ シマダ ヒデオ
ラテン文字 SHIMADA Hideo
基本情報
生年月日 1915年6月27日[1]
大日本帝国, 岡山県[2]
没年月日 (2005-11-03) 2005年11月3日(90歳没)
日本, 東京都品川区[2]
選手情報
ポジション HB
ユース
1933-1936 水戸高校
1936-1940 東北帝国大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1950-19xx 中日本重工業
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

島田 秀夫(しまだ ひでお、1915年6月27日 - 2005年11月3日)は、岡山県出身の会社役員、サッカー選手、第7代日本サッカー協会会長。

経歴

1928年東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、石川馨東京大学名誉教授)、中村光夫(文芸評論家)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。

旧制水戸高校(現・茨城大学)を経て、1936年に東北帝国大学法文学部に入学。1940年3月に大学を卒業して三菱重工業に入社した[1]。1941年に太平洋戦争の召集を受けて従軍、1945年にシベリア抑留に遭い、1947年に帰国。1948年に三菱重工業に復職した。

1950年に中日本重工業サッカー部(三菱重工業サッカー部の前身)を設立し岡野良定らと共に選手としてプレー、引退後は同サッカー部部長を務める傍ら、日本サッカーリーグ評議会議長等を務めた。

1973年5月に三菱重工業の取締役人事部長、同年11月に取締役大阪営業所長、1975年6月に取締役勤労部長、1976年8月に常務取締役補佐、1977年6月に常務取締役を歴任。1981年6月に三菱重工業の取締役副社長に就任した。また、同時期に三菱自動車工業の取締役も兼任した[1]

1980年から1992年まで日本サッカー協会(JFA)副会長、1992年から1994年までJFA第7代会長に就任。1993年日本プロサッカーリーグ開幕、2002 FIFAワールドカップ開催地立候補等に携わった。また、日本体育協会評議員や日本オリンピック委員会評議員などを歴任。2005年には第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。

2005年11月3日、東京都品川区において心不全で死去した[2]

脚注

  1. ^ a b c 三菱重工業 有価証券報告書 (1982年3月期)、2016年10月8日閲覧
  2. ^ a b c 島田秀夫氏死去/日本サッカー協会最高顧問”. 四国新聞 (2005年11月4日). 2016年10月8日閲覧。

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「島田秀夫」の関連用語

島田秀夫のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



島田秀夫のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの島田秀夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS