誕生から秀吉の死まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:25 UTC 版)
文禄2年(1593年)、秀吉57歳の時の子で、大坂城で誕生した。子供の健康な成長を願う当時の祈願として、いったん捨てた形にして、家臣の松浦重政が拾い上げた。 誕生した時には既に、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていた。秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の10月には、秀頼と秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索した。 文禄4年(1595年)7月、秀吉は秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しとなり、秀頼の秀吉の継嗣としての地位が確定した。秀吉はこの時、秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、多数の大名達に血判署名させている。伏見(桃山)城が建設され秀吉が居城を移すと、秀頼もこれに従って以後ここに住んだ。 文禄5年(1596年)5月13日、秀頼は初めて上洛して、豊臣朝臣藤吉郎秀頼と称す(『太田牛一旧記』)。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して、秀頼を補佐する体制を整えた。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。 秀吉死後には五大老の徳川家康が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。五大老の前田利家の死去、七将襲撃事件に伴う五奉行・石田三成の失脚などで、政局の主導権は家康の手に握られてゆく。
※この「誕生から秀吉の死まで」の解説は、「豊臣秀頼」の解説の一部です。
「誕生から秀吉の死まで」を含む「豊臣秀頼」の記事については、「豊臣秀頼」の概要を参照ください。
- 誕生から秀吉の死までのページへのリンク