誕生から第一銀行時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 22:57 UTC 版)
明治20年(1887年)、先代喜太郎と丑の長男として高知県安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる。明治29年(1896年)先代喜太郎が病没、家督相続し、又喜を改め、襲名。明治38年(1905年)、高知県立中学海南学校を卒業後、官立東京高等商業学校(高等商業学校を改称、東京高商、現・一橋大学)に入学。渋沢事務所の八十島親徳に保証人を依頼。在学中は、休暇の前後に八十島親徳を訪問し、種々教えを受ける。 明治42年(1909年)、本科2年生の時、文部省の方針に反対する学園紛争(申酉事件)が起きた。5月6日、文部大臣小松原英太郎が東京高商専攻部廃止を決定したことに抗議するため、5月11日、学生大会にて全学生総退学を決議した。退学届には、保証人の調印が必要なため、八十島親徳へ調印を依頼した。喜太郎の母の依頼により保証人になったのだから、明瞭に退学を同意すれば、調印すると回答。その間も、八十島親徳らは事態収拾に奔走。中野武営、島田三郎、東京高商の商議員である渋沢栄一の調停により、文部省が原案を撤回した。5月24日、喜太郎を含む全学生は復学。 明治43年(1910年)、卒業後の進路について、八十島親徳へ相談。「商事会社や工業会社は適当ではないと思うから、銀行方面に就職してはどうか」と助言を得、八十島親徳の周旋により、卒業後の7月、第一銀行(現・みずほ銀行)へ入行。入行時も八十島親徳が保証人を引きける。入行後、総支配人佐々木勇之助の面接を受ける。明治44年(1910年)、八十島親徳の親友で、東京高商先輩の石井健吾が支配人に就任。新支配人歓迎会で、白虎隊の活人画を行う。明治45年(1911年)、渋沢栄一の娘婿である明石照男が入行し、割引掛で机を並べる。
※この「誕生から第一銀行時代」の解説は、「白石喜太郎」の解説の一部です。
「誕生から第一銀行時代」を含む「白石喜太郎」の記事については、「白石喜太郎」の概要を参照ください。
- 誕生から第一銀行時代のページへのリンク