あさひな‐たかし【朝比奈隆】
朝比奈隆
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朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年(明治41年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月29日)は、大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた日本の指揮者。位階は従三位。
- ^ 経歴については 『大日本実業家名鑑. 上巻』(国立国会図書館デジタル化資料)
- ^ 『私の履歴書:文化人』第13巻(日本経済新聞社、1984年)p.17
- ^ 朝比奈隆の一生~誕生から高校まで~ 京都大学交響楽団
- ^ 隆の生まれた頃林之助は北越鉄道で支配人をしており渡邊は取締役会長 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』 で東洋電機製造設立時には取締役と社長の関係であった 『日本全国諸会社役員録. 第27回』
- ^ 『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』p.46
- ^ 日本では1942年に戦時体制による電力会社統制が実施されるまで電力会社が公営企業も含め各地に乱立していた。また阪急のように電車を運行する私鉄が、副業で自社用発電所・高圧送電線の余力を利用して沿線住民に電力供給するビジネスをする事例も多々あった。
- ^ 1902年(明治35年)生まれ。京都府出身の声楽家、陸軍中尉。当時、陸軍報道部専任の将校として新聞検閲官を兼ね、文化担当の権限を一手に掌握していた。近衛秀麿やオットー・クレンペラー、ヒンデミットに指揮を学び、2004年(平成16年)に101歳で指揮台に立ち、「現役の世界最高齢指揮者」として話題を集めた。2008年(平成20年)3月18日、105歳で死去。
- ^ 同演奏のライヴCD(ビクター発売)ライナーノートによる。執筆は宇野功芳
- ^ 87歳のアメリカデビュー 朝比奈隆・シカゴ響を振る - NHK放送史
- ^ 朝比奈はストコフスキーが亡くなった年齢・95歳を意識していたが、ストコフスキーが公開の演奏会に出演したのは93歳までであり、以降の活動はレコーディングに専念している。大阪フィルハーモニー交響楽団は、2014年11月22日・24日の「第483回定期演奏会」においてその時94歳8ヶ月のヘルムート・ヴィンシャーマンの指揮でバッハのマタイ受難曲を演奏している。
- ^ 他にもゆかりの指揮者の指揮で献奏があった。
- ^ 『朝日新聞』1976年4月6日(東京本社発行)朝刊、p.22。
- ^ “朝日賞 1971-2000年度”. 朝日新聞社. 2022年9月8日閲覧。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 28頁。
- ^ “神戸市名誉市民”. 神戸市. 2022年8月1日閲覧。
- ^ 『楽は堂に満ちて』所収「師と弟子」pp.161-162
- ^ 『楽は堂に満ちて』p.97
- ^ 林は報道で「朝比奈隆に師事」と表現されることもあるが、岩野裕一著『王道楽土の交響楽』での林自身の談話として、朝比奈の「通訳や身の回りの世話」を担当していたというのが本当のところである。もっとも、続いて「押し掛けるような形で弟子になったのです」とも言っている。
- ^ 『楽は堂に満ちて』所収「師と弟子」pp.162
- ^ 報道や各種評論では251回とされることが多いが、大阪フィルハーモニー協会が2010年(平成22年)に発行した『大阪フィルハーモニー交響楽団 ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付」演奏記録(1948年〜2009年)』では、大阪フィル・その他楽団合わせて247回と書かれている(大阪フィル分についてはこの他に第4楽章のみが6回ある)。演奏の中には1日2回公演、同一プログラムを2日間行った、等がある。
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 朝比奈が京都帝国大学法学部に入学した1928年(昭和3年)4月に、河上は同経済学部を辞職している。河上が京都を離れたのは1930年(昭和5年)であり、1929年(昭和4年)に第三高等学校(現:京都大学大学院人間・環境学研究科、総合人間学部)に入学した日野原重明が京都大学の河上の授業にもぐり込んで聞いたと述懐した記録もある(「京大広報」710号, 2015.4)。
- ^ 実際はこれに対して朝比奈千足の応答などが若干あるので、厳密さで注意は要る(時期も2001年(平成13年)12月上旬頃とした記事もある)。
- ^ Webcatをもとにした親本の情報による。
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