伊藤熹朔とは? わかりやすく解説

いとう‐きさく【伊藤熹朔】

読み方:いとうきさく

[1899〜1967舞台美術家東京生まれ築地小劇場以来新劇中心に舞台美術映画美術数多く手がけ、写実的装置を得意とした。舞踊家伊藤道郎の弟、演出家千田是也の兄。


伊藤熹朔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/11 09:47 UTC 版)

いとう・きさく
伊藤熹朔
生年月日 (1899-08-01) 1899年8月1日
没年月日 (1967-03-31) 1967年3月31日(67歳没)
出生地 日本東京府東京市神田区三崎町
民族 日本人
職業 舞台美術家
ジャンル 舞台美術映画
活動期間 1920年代 - 1967年
主な作品
日在校園
受賞
毎日映画コンクール
美術賞
1953年『雁』、『雨月物語
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伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967年3月31日[1])は、日本の舞台美術家美術監督である。伊藤熹朔賞に名を残す。

人物・来歴

1899年(明治32年)8月1日東京市神田区(現東京都神田三崎町に建築家伊藤為吉の四男として生まれる[1]。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也[1]、妹暢子はのちに画家の中川一政を夫とした。

旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学[1]、在学中から土方与志の模型舞台研究所に参加した。1923年(大正12年)に同校を卒業し、1924年大正13年)、『ジュリアス・シーザー』の装置で舞台美術家としてデビューする[1]。その後、築地小劇場、分裂後の劇団築地小劇場、築地座、新協劇団などの舞台美術を手がけ、舞台美術の先駆者となる。1930年(昭和5年)、六人会を結成、後進の育成に努めた。

1953年(昭和28年) 株式会社俳優座劇場付属の舞台美術部を芝区川桜町に開設

1956年(昭和31年)、イヴ・シャンピ監督による日仏合作映画『忘れえぬ慕情』の美術、1959年(昭和34年)には、ジョン・ヒューストン監督の『黒船』の美術顧問を務め、国際的にも活動した[2]

1962年、菊池寛賞を受賞[3]

1964年(昭和39年)、日本芸術院会員になる[1]

1967年(昭和42年)3月31日、死去した[1]。満67歳没。墓所は染井霊園

娘の伊藤弘子wikidataは女優となり、俳優の長谷川哲夫と結婚ののち引退した。2人の娘で熹朔の孫である上原真美も女優になっている。

フィルモグラフィ

特筆なきものは「美術」とクレジット[2]

ビブリオグラフィ

共編著、監修

挿絵、装幀、舞台装置

受賞歴

脚注

  1. ^ a b c d e f g 伊藤熹朔、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年3月5日閲覧。
  2. ^ a b 伊藤憙朔、日本映画データベース、2010年3月5日閲覧。
  3. ^ 伊藤熹朔 年譜
  4. ^ 『朝日新聞』1950年4月1日(東京本社発行)朝刊、2頁。

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