香取正彦
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かとり まさひこ
香取 正彦
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生誕 | 1899年1月15日 東京市小石川区 |
死没 | 1988年11月19日(89歳没) 東京都新宿区 |
出身校 | 東京美術学校鋳造科 (現・東京藝術大学) |
職業 | 鋳金工芸作家 |
親 | 父:香取秀真 |
栄誉 | 人間国宝(1977年) |
香取 正彦(かとり まさひこ、1899年〈明治32年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉11月19日)は、日本の鋳金工芸作家。梵鐘分野で重要無形文化財保持者(人間国宝)。父は鋳金工芸作家の香取秀真。
経歴
戦前
1899年(明治32年)1月15日、東京市小石川区に生まれた[1]。父は鋳金工芸作家の香取秀真であり、正彦は長男だった[1]。まもなく両親の出身地である佐倉(現・千葉県佐倉市)へ移り、幼少期を佐倉で過ごした。
1916年(大正5年)から1920年(大正9年)には太平洋画会研究所で洋画を学んだ[1]。1920年(大正9年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)鋳造科に入学し[1]、主任教授である津田信夫の指導を受けた。製作にあたっては古典研究を基礎としている。1925年(大正14年)に東京美術学校鋳造科を卒業すると[1]、同年にはパリ万国装飾美術工芸博覧会(アールデコ万博)に「苺唐草文花器」を出品して銅牌を受賞した。
1928年(昭和3年)の第9回帝展では「魚文鋳銅花瓶」で初入選した[1]。1930年(昭和5年)の第11回帝展では「鋳銅花器」で特選を受賞し[1]、1931年(昭和6年)の第12回帝展では「蝉文銀錯花瓶」で再度特選を受賞[1]、1932年(昭和7年)の第13回帝展では「金銀錯六方水盤」で3年連続の特選を受賞し[1]、帝展無鑑査となった。
戦後

太平洋戦争終戦後には、戦時中に供出された仏具や仏像などの文化財修理・保護に尽力した。1950年(昭和25年)には父の秀真とともに梵鐘製作を始め[1]、計150口を超える鐘を制作している。1958(昭和33年)には横浜市がアメリカ合衆国サンディエゴに贈った「友好の鐘」、1963年(昭和38年)には滋賀県大津市の比叡山延暦寺阿弥陀堂の梵鐘、1964年(昭和39年)には東京都大田区の池上本門寺の梵鐘、1967年(昭和42年)には広島市の平和記念公園にある「平和の鐘」などを製作した[1]。その他には千葉県成田市の成田山新勝寺の梵鐘[2]、岡山市の法界院の梵鐘[3]なども製作した。
1953年(昭和28年)には芸術院賞を受賞した。1954年(昭和29年)より日本伝統工芸展が開かれると、第3回展から審査委員を委嘱されている。1977年(昭和52年)4月25日には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。1981年(昭和56年)には梵鐘製作100点を達成し『百禄の鐘』を出版した。1987年(昭和62年)には三十三間堂の梵鐘を製作した。同年には『日本経済新聞』の「私の履歴書」に香取の生涯が連載された。
1988年(昭和63年)には日本芸術院会員に推挙され[1]、同年には宮城県岩沼市にある竹駒寺の梵鐘を手がけるも、完成目前の同年11月19日に死去し、この梵鐘が遺作となった。人間国宝の人形作家である堀柳女などと親交があった[4]。
2022年(令和4年)には佐倉市立美術館で収蔵作品展「人間国宝・香取正彦の仏具と佐倉の工芸」が開催された。
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池上本門寺の梵鐘
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平和記念公園の「平和の鐘」
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成田山新勝寺の梵鐘
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法界院の梵鐘
主な作品
- 『鋳銅花器』(東京国立近代美術館蔵、1930年)
- 『青銅回文菱花器』(東京国立近代美術館蔵、1963年)
- 『麒麟』(佐倉市立美術館蔵)
- 『獅子』(佐倉市立美術館蔵)
- 『正倉院御物柄香炉』
- 『朧銀牡丹文花瓶』
- 『朧銀熏鑪』
- 『朧銀蝶文花器』
- 『朧銀鳥装花瓶』
- 『朧銀玉装花瓶』
- 『朧銀羊耳花瓶』
脚注
外部リンク
- 香取正彦 東文研アーカイブデータベース
固有名詞の分類
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