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池部鈞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/16 16:13 UTC 版)

池部鈞
生誕 1886年3月3日[3]
死没 (1969-12-17) 1969年12月17日(83歳没)[3]
東京都八王子市[1]
国籍 日本
出身校 東京美術学校[3]
著名な実績 漫画洋画
代表作 「少女球戯図」(1928年)帝展特選[3]
「踊」(1930年)帝展特選[3]
受賞 「美人一列」日本芸術院賞(1966年)[1]
勲四等旭日小綬章(1967年)[1]
選出 一水会会員(1938年)[1]
一水会運営委員[1]
日展評議員[1]
白日会創立会員[2]
活動期間 明治 - 昭和時代[3]
影響を受けた
芸術家
渡辺審也[3]
影響を与えた
芸術家
池部良(実子)[3][1]

池部 鈞(いけべ ひとし、1886年明治19年)3月3日[4] - 1969年昭和44年)12月17日[3])は、東京府東京市本所区(現東京都墨田区本所[1]出身の日本風刺漫画家[5]洋画家[3][4][6][7]。旧姓・山下[3][1]

岡本一平の義弟(妻が岡本一平の妹)[8]岡本太郎の叔父にあたり[9]、俳優の池部良は実子[3][10][11]

来歴

1886年(明治19年)3月3日、東京本所に生まれる[1]。東京府人の山下覺之介[12]の二男[4][6][7]。叔父で芝区露月町で洋服商の池田屋を営む池部鍬吉の養子となる[4]。台東区立下谷小学校に通った[1][注釈 1]

1898年(明治31年)頃、12歳時に神田の錦城中学に入学[1]、翌1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す[1]

中学3年となった1902年(明治35年)頃、石井柏亭に師事を願い出るが断られ[1]、代わりに紹介された渡辺審也に師事する[3][1]。1910年(明治43年)、東京美術学校を卒業[4][注釈 2]、翌1911年(明治44年)、朝鮮京城日報社入社[1][13]、1914年(大正3年)には徳富蘇峰国民新聞に入社[13]し政治・議会・社会分野などの漫画を担当した[注釈 3][注釈 4]

1916年(大正5年)、漫画誌「トバエ」が創刊され参加、翌1917年(大正7年)、「漫画」創刊参加、その後も漫画分野では1922年(大正11年)「漫画の畑」、1925年(大正14年)、「漫画ボーイ」[注釈 5]などに創刊号から執筆参加し漫画界の第一人者として活躍した[1][10]

漫画分野の活躍と前後して、油絵分野では1921年(大正10年)の帝展出品作「大道芸人」より帝展出品を開始、1928年(昭和3年)、第9回帝展「少女球戯図」が帝展特選、続く1930年(昭和5年)、第11回帝展「踊」も帝展特選および無鑑査となった[1]

1938年(昭和13年)、一水会会員、のちに一水会運営委員、日展評議員も務めた[1]

1966年(昭和41年)、「美人一列」が日本芸術院賞恩賜賞受賞[1]、翌1967年(昭和42年)、勲四等旭日小綬章受章[1]

1969年(昭和44年)12月17日、心不全のため東京都八王子市の永生病院で死去、享年83[1]

人物

趣味は旅行[4][6][7]。宗教は日蓮宗[4][6][7]。住所は東京市大森区新井宿四丁目[4][6][7]。せっかちな江戸っ子気質で、自宅で鍋を囲むときは必ず鍋奉行に興じ、特にすき焼きを食べる際は、〆の最後に沢庵や白菜の漬物を入れていた。これについて息子の池部良は「まずくはないが、馴れるまで時間がかかった」と述懐している[15]

著作

  • 池部鈞『僕の学生時代』磯部甲陽堂、1918年。ASIN B0099H0HFI 
  • 池部鈞、服部亮英、細木原青起、牛島一水、小林克巳、北澤楽天、水島爾保布、宮尾しげを『漫畫の滿洲』大阪屋号書店、1927年10月。NCID BN15555671 
  • 池部鈞『凸凹放送局 : 池部鈞集』現代ユウモア全集刊行会、1929年。 NCID BA63316851 
展覧会出品目録については#外部リンク参照

家族・親族

池部家 
親戚
  • 岡本一平(漫画家)
  • 岡本かの子(歌人、小説家)
  • 岡本太郎(芸術家)

脚注

注釈

  1. ^ 高等科一年頃の同窓生に石井鶴三がいた[1]
  2. ^ 同窓生に藤田嗣治岡本一平田中良近藤浩一路長谷川昇らがいた[1]
  3. ^ 議会分野の先輩に平福百穂が議会スケッチ担当で在籍していた[1]
  4. ^ 阿部充家の娘、阿部光子のエッセイ「共に生きるよろこび」によれば、既に平福百穂が在籍しているため池部は不採用になりかけたが、阿部充家が徳富に掛け合って採用が決まった、と語られている[14]
  5. ^ 執筆陣に山田みのる、前川千帆らがいた[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「池部鈞」(2015年12月14日)、2016年10月4日閲覧。
  2. ^ 目黒区美術館所蔵作品目録Ⅰ 1981-1987”. 目黒区美術館. 2016年10月4日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “池部鈞 いけべ-ひとし”. コトバンク. 2016年10月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i 『大衆人事録 第14版 東京篇』85頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月11日閲覧。
  5. ^ 晩年はエッセイストとしても活躍した池部良”. 文藝春秋 (2013年1月7日). 2016年10月4日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第13版 上』補遺(上巻)17頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月10日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 上』イ124頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月10日閲覧。
  8. ^ 町田市立博物館で田河水泡コレクションによる『笑いの中に ~近代の戯画・風刺画~』展を開催します” (PDF). 町田市 (2013年1月16日). 2016年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月4日閲覧。
  9. ^ 小野佐世男―モガ・オン・パレード 展”. 神奈川県観光協会 (2012年9月18日). 2012年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月4日閲覧。
  10. ^ a b 後藤康行 (2012年3月). “戦時下の漫画にみる逓信事業と戦争” (PDF). 郵政博物館. p. 88. 2016年10月4日閲覧。
  11. ^ 池部 鈞”. 徳富蘇峰記念館. 2016年10月4日閲覧。
  12. ^ 愛知県士族か
  13. ^ a b 高晟埈. “在朝鮮日本人漫画家の活動について―岩本正二を中心に” (PDF). 新潟万代島美術館. p. 9. 2016年10月4日閲覧。
  14. ^ 阿部光子『共に生きるよろこび』水書坊、1991年4月、37頁。 ISBN 978-4943843627 
  15. ^ 野村麻里 編『作家の手料理』平凡社、2021年2月25日、165‐171頁。
  16. ^ 野村麻里 編『作家の手料理』平凡社、2021年2月25日、166頁。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。

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