服部擔風とは? わかりやすく解説

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服部担風

読み方はっとり たんぷう

漢詩人書家。尾張生。名は轍、字は子通称は粂之丞。早くから詩や書画優れた森春濤父子学び野口寧斎高島秋帆・永阪石埭・高野六石等と交友。詩は清朝風を重んじ律詩古詩を得意とした。「随鷗集」「文学禅」「書勢」「雅声」等に寄稿し、「雅声」顧問、「随鷗集」主事、佩吟社をはじめ、扇城吟社清心吟社多数漢詩社の主宰務めた作品に『担風詩集』等がある。日本芸術院賞受賞昭和36年(1964)歿、96才。

服部擔風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/20 15:13 UTC 版)

服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日1867年12月21日[1] - 昭和39年(1964年5月27日[1])は、明治・大正・昭和にかけて活躍した漢詩人書家。「最後の漢詩人」とも言われる[2]

来歴

1867年(慶応3年)、尾張国海西郡鯏浦(現在の愛知県弥富市鯏浦)に生まれる[1][3]。戦国時代の土豪服部友貞の子孫で、大地主の家の次男であった。幼名は粂之丞(くめのじょう)[1]。 1882年(明治15年)、尾張藩儒者森村大朴に漢籍を学ぶ[1]。大朴は粂之丞の熱心さに感心し、漢詩を作るように勧めた。1884年(明治17年)村田梅村の水月吟社に入る[1]。ここで漢詩人の森春涛らの影響を受ける[1]。粂之丞は、名を擔風と改め、詩の研究とともに詩作に励んだ。1891年(明治24年)、土居香国らと柳城吟社を設立[1]。1893年(明治26年)「梅花唱和の詩」を東京日日新聞(現在の毎日新聞)に発表して、詩壇にデビューした[1]。1905年(明治38年)佩蘭社を設立した[1]。1914年(大正3年)興風会を設立[1]。1916年(大正5年)、丙辰吟社を設立[1]。1918年(大正7年)興風会を廃止して、清心吟社を設立する[1]

1936年(昭和11年)、生地の弥富町鯏浦(現在の弥富市鯏浦)に漢詩碑が建てられる[1]。1951年(昭和26年)中日文化賞受賞[1]1953年(昭和28年)『擔風詩集』で日本芸術院賞を受賞[1]。1962年(昭和37年)弥富町名誉町民[1]

1964年、老衰により弥富町の自宅で死去[1][3][4]。享年96歳。

1902年(明治35年)に建てられた擔風の書斎「藍亭(らんてい)」は、1973年に弥生小学校に移転された後、2017年に弥富市の森津の藤公園に移築された[3][5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 蘇江の漢詩人 服部擔風”. 津島市. 2025年6月20日閲覧。
  2. ^ 没後60年 服部擔風とその周辺 – 一宮市博物館”. www.icm-jp.com. 一宮市博物館. 2025年6月20日閲覧。
  3. ^ a b c 酒井博章 (2017年4月19日). “擔風の功績 後世に 弥富市 漢詩手掛けた書斎 公園に移築”. 中日新聞 (中日新聞社): p. 朝刊 尾張総合版 15 
  4. ^ 『出版年鑑 1965年版』出版ニュース社、1965年。 
  5. ^ 藍亭|文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 文化庁. 2025年6月20日閲覧。


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