太平洋画会研究所とは? わかりやすく解説

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太平洋美術会

(太平洋画会研究所 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/04 10:06 UTC 版)

一般社団法人太平洋美術会
Taiheiyo Art Association
団体種類 一般社団法人
設立 1889年
所在地 東京都荒川区西日暮里3丁目7-29
法人番号 3011505000464
主要人物 会長 佐田興三
活動地域 日本
ウェブサイト www.taiheiyobijutu.or.jp
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一般社団法人太平洋美術会(たいへいようびじゅつかい)は、日本の美術団体。洋画彫刻版画染織の各部がある。前身は「太平洋画会」である。

沿革

1889年小山正太郎浅井忠らによって結成された明治美術会は、白馬会の独立などで勢力が衰え、1901年に解散したが、ヨーロッパから帰国した同会の新進作家、吉田博満谷国四郎、中川八郎、丸山晩霞有吉秀太永地秀太) らを中心に、石川寅治、都鳥英喜、大下藤次郎渡部審也 らが会務委員となり、明治美術会の後身として「太平洋画会」が結成された。

1902年1月、第1回展を上野公園5号館で開催する[1]。第2回展は、小杉未醒石井柏亭、高村真夫らが出品。第3回展(1904年5月1日-6月6日)は、フランス留学から1904年に帰国した鹿子木孟郎が出品、また浅井「グレーの近郊」、満谷「軍人の妻」、鹿子木「婦人肖像」、石井柏亭「草上之小憩」、新海「賄賂」など。第5回展には、フランス留学から1905年に帰国した中村不折が出品するに及んで、白馬会に対する洋画界の二大潮流を形成するに至った。

当初は、鹿子木や不折が師事したジャン・ポール・ローランスのアカデミックな画風で、白馬会系の外光表現と対照された。

1957年、「太平洋美術会」と改称。1975年には社団法人化した。

太平洋画会研究所

1904年、太平洋画会研究所を開設[1]して、後進の育成も行った(1929年、「太平洋美術学校」と改称[1]、初代校長は中村不折)。戦災を受けた後、1957年に再開し、現在は太平洋画会研究所として続いている。初期の生徒としては川上凉花川村信雄萬鐵五郎・三並花弟・松村巽など。そのほか、中村彝中原悌二郎堀進二鶴田吾郎大久保作次郎足立源一郎、岡田穀、川端竜子、渡辺文子、宮崎与平、荻原守衛戸張孤雁、埴原久和代、長沼智恵子中川紀元本田庄太郎玉井力三らが学んだ[2]

会員

元幹部など

関連項目

参考文献

  • 高橋虎之助 編「年表」『創立三十年記念記録』太平洋画会、1932年、27-30頁。 

脚注

  1. ^ a b c 高橋虎之助 1932
  2. ^ 『わが心の自叙伝, 第 1 巻』神戶新聞社学芸部、のじぎく文庫, 1967, p127-

外部リンク


太平洋画会研究所

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松本竣介」の記事における「太平洋画会研究所」の解説

1929年昭和4年3月20日盛岡中学3年中途退学し、東京へ出た小学校恩師佐藤瑞彦が、当時池袋にあった自由学園勤めていたため、その尽力佐藤隣家に家を借りて生活するようになった。そこから太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)へ通い始めた当時、この研究所では授業料未払いめぐって画学生と経営者側で対立続いており、1930年(昭和5年)晩秋研究所から学校衣替えして、太平洋美術学校として再スタート、竣介は引き続きこの学校通った。この研究所には靉光井上長三郎鶴岡政男通っていたが(美術学校衣替えしてからは通わなくなった)、当時互い面識はなかった。太平洋美術学校では鶴田吾郎指導受けたが、今ひとつ惹かれるものがなかったようである。10月におきた世界恐慌のあおりで、勝身が経営する銀行破産危機みまわれた。 美術学校通っている間は、しばしば近く茶房「りゝおむ」に集まって仲間議論した当時、竣介はフルポンのあだなで呼ばれていた。当時の竣介は、モディリアニ生き方傾倒していた。「赤荳(あかまめ)」という名のグループ作って活動していたが、この名は、モディリアニモデルにして書かれジョルジュ=ミッシェル作の伝記小説「レ・モンパルノ(Les Montparnos)」(第三書院1932年)の中に出てくる少女アリコ・ルージュを日本語訳したのである仲間中にはマルクス主義者混じっていて、階級的芸術論説いてオルグしていたので、その理論勉強するために「太平洋近代藝術研究会」と名付けた会を作って「線」という雑誌(第1号昭和6年9月刊)を出した。竣介はマルクス主義芸術論には共感できず「線」は2号終刊した。 1932年になると、この頃池袋林立しつつあったアトリエ仲間共同一軒借り、ここで絵画の制作を行うようになった。この時、モデル岩本政代恋愛関係になったが、それが原因仲間の間にわだかまりができ、共同アトリエは5ヶ月解散した。この共同アトリエ時期郷里徴兵検査受けたが、耳が聞こえないので兵役免除になったアトリエ解散後は兄の彬の新居一緒に暮らすことになった

※この「太平洋画会研究所」の解説は、「松本竣介」の解説の一部です。
「太平洋画会研究所」を含む「松本竣介」の記事については、「松本竣介」の概要を参照ください。

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