太平洋美術会
団体種類 | 一般社団法人 |
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設立 | 1889年 |
所在地 | 東京都荒川区西日暮里3丁目7-29 |
法人番号 | 3011505000464 |
主要人物 | 会長 佐田興三 |
活動地域 |
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ウェブサイト |
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一般社団法人太平洋美術会(たいへいようびじゅつかい)は、日本の美術団体。洋画・彫刻・版画・染織の各部がある。前身は「太平洋画会」である。
沿革
1889年に小山正太郎、浅井忠らによって結成された明治美術会は、白馬会の独立などで勢力が衰え、1901年に解散したが、ヨーロッパから帰国した同会の新進作家、吉田博、満谷国四郎、中川八郎、丸山晩霞、有吉秀太(永地秀太) らを中心に、石川寅治、都鳥英喜、大下藤次郎、渡部審也 らが会務委員となり、明治美術会の後身として「太平洋画会」が結成された。
1902年1月、第1回展を上野公園5号館で開催する[1]。第2回展は、小杉未醒、石井柏亭、高村真夫らが出品。第3回展(1904年5月1日-6月6日)は、フランス留学から1904年に帰国した鹿子木孟郎が出品、また浅井「グレーの近郊」、満谷「軍人の妻」、鹿子木「婦人肖像」、石井柏亭「草上之小憩」、新海「賄賂」など。第5回展には、フランス留学から1905年に帰国した中村不折が出品するに及んで、白馬会に対する洋画界の二大潮流を形成するに至った。
当初は、鹿子木や不折が師事したジャン・ポール・ローランスのアカデミックな画風で、白馬会系の外光表現と対照された。
1957年、「太平洋美術会」と改称。1975年には社団法人化した。
太平洋画会研究所
1904年、太平洋画会研究所を開設[1]して、後進の育成も行った(1929年、「太平洋美術学校」と改称[1]、初代校長は中村不折)。戦災を受けた後、1957年に再開し、現在は太平洋画会研究所として続いている。初期の生徒としては川上凉花・川村信雄・萬鐵五郎・三並花弟・松村巽など。そのほか、中村彝、中原悌二郎、堀進二、鶴田吾郎、大久保作次郎、足立源一郎、岡田穀、川端竜子、渡辺文子、宮崎与平、荻原守衛、戸張孤雁、埴原久和代、長沼智恵子、中川紀元、本田庄太郎、玉井力三らが学んだ[2]。
会員
元幹部など
関連項目
- 損保ジャパン美術財団選抜奨励賞 - 日本の美術団体から選抜された新人作家に贈られる賞
参考文献
- 高橋虎之助 編「年表」『創立三十年記念記録』太平洋画会、1932年、27-30頁。
脚注
- ^ a b c 高橋虎之助 1932
- ^ 『わが心の自叙伝, 第 1 巻』神戶新聞社学芸部、のじぎく文庫, 1967, p127-
外部リンク
太平洋画会研究所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 05:13 UTC 版)
1929年(昭和4年)3月20日、盛岡中学を3年で中途退学し、東京へ出た。小学校の恩師佐藤瑞彦が、当時は池袋にあった自由学園に勤めていたため、その尽力で佐藤の隣家に家を借りて生活するようになった。そこから太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)へ通い始めた。当時、この研究所では授業料の未払いをめぐって画学生と経営者側で対立が続いており、1930年(昭和5年)晩秋に研究所から学校へ衣替えして、太平洋美術学校として再スタート、竣介は引き続きこの学校に通った。この研究所には靉光、井上長三郎、鶴岡政男も通っていたが(美術学校に衣替えしてからは通わなくなった)、当時は互いの面識はなかった。太平洋美術学校では鶴田吾郎の指導を受けたが、今ひとつ惹かれるものがなかったようである。10月におきた世界恐慌のあおりで、勝身が経営する銀行が破産の危機にみまわれた。 美術学校に通っている間は、しばしば近くの茶房「りゝおむ」に集まって仲間と議論した。当時、竣介はフルポンのあだなで呼ばれていた。当時の竣介は、モディリアニの生き方に傾倒していた。「赤荳(あかまめ)」という名のグループを作って活動していたが、この名は、モディリアニをモデルにして書かれたジョルジュ=ミッシェル作の伝記小説「レ・モンパルノ(Les Montparnos)」(第三書院、1932年)の中に出てくる少女アリコ・ルージュを日本語に訳したものである。仲間の中にはマルクス主義者も混じっていて、階級的芸術論を説いてオルグしていたので、その理論を勉強するために「太平洋近代藝術研究会」と名付けた会を作って「線」という雑誌(第1号は昭和6年9月刊)を出した。竣介はマルクス主義的芸術論には共感できず「線」は2号で終刊した。 1932年になると、この頃池袋に林立しつつあったアトリエを仲間と共同で一軒借り、ここで絵画の制作を行うようになった。この時、モデルの岩本政代と恋愛関係になったが、それが原因で仲間の間にわだかまりができ、共同アトリエは5ヶ月で解散した。この共同アトリエの時期に郷里で徴兵検査を受けたが、耳が聞こえないので兵役免除になった。アトリエ解散後は兄の彬の新居で一緒に暮らすことになった。
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