大映東京撮影所とは? わかりやすく解説

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角川大映スタジオ

(大映東京撮影所 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/03 14:19 UTC 版)

KADOKAWA > 角川大映スタジオ
株式会社角川大映スタジオ
Kadokawa Daiei Studio CO.,LTD.
種類 株式会社
本社所在地 日本
182-0025
東京都調布市多摩川6丁目1番1号[注 1]
本店所在地 102-8078
東京都千代田区富士見2丁目13番3号
設立 2013年4月1日
業種 サービス業
法人番号 6010001152619
事業内容 撮影・編集スタジオの運営
美術製作等
代表者 代表取締役社長 菊池剛
資本金 1億円
売上高 35億8百万円(2021年3月期)[1]
営業利益 1億67百万円(2021年3月期)
経常利益 2億9百万円(2021年3月期)
純利益 2億436万1,000円(2024年3月期)[2]
純資産 70億58百万円(2021年3月期)
総資産 78億7,358万円(2024年3月期)[2]
従業員数 153名(2019年2月現在)
決算期 3月
主要株主 KADOKAWA 100%
外部リンク kd-st.co.jp
特記事項:1933年 日本映画多摩川撮影所として開所、2002年に角川大映撮影所となる[注 1]
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本店

株式会社角川大映スタジオ(かどかわだいえいスタジオ、: Kadokawa Daiei Studio CO.,LTD.)は、日本の東京都調布市多摩川に所在する映画スタジオKADOKAWAの傘下企業として、撮影・編集スタジオの運営や美術製作等を担うスタジオ事業を行っている[注 2]

「角川大映撮影所」となってからの歴史は浅いが、撮影所自体は、1933年(昭和8年)に同地に開所した日本映画多摩川撮影所以来、70年以上の歴史をもつ[注 1]

建物の看板には、源流企業である角川書店の鳳凰のマークと大映のマークの2つが掲げられている。

名称の変遷

  • 1933年 - 日本映画多摩川撮影所
  • 1934年 - 日活多摩川撮影所
  • 1942年 - 大日本映画東京第二撮影所
  • 1945年 - 大映東京撮影所
  • 1977年 - 大映映画撮影所
  • 1983年 - 大映スタジオ
  • 2002年 - 角川大映撮影所
  • 2013年 - 角川大映スタジオ

略歴・概要

  • 1932年(昭和7年) - 京都の東活映画社が東京に撮影所を新設すべく、本多嘉一郎(のちの調布市長)を派遣し、現在の角川大映撮影所を含む敷地約6500坪を無償で京王電気軌道(現在の京王電鉄)より取得したが、倒産、解体された。
  • 1933年(昭和8年) - 東活映画社を母体に日本映画株式会社が設立され、同敷地に日本映画多摩川撮影所として開所した。当時の地番は東京府北多摩郡調布町大字布田小島分(旧同郡布田小島分村、現在の東京都調布市多摩川6-1-1)であった。
  • 1934年(昭和9年) - 日本映画が倒産し、日本活動写真株式会社(現在の日活)が同撮影所を買収し、名称は日活多摩川撮影所となった。これにより日活現代劇部は京都から再移転し、初代所長には移転計画を陣頭指揮した専務取締役中谷貞頼が就任したが、後には根岸寛一に交代した。撮影所の裏手にあった集落も買収し、約5千坪の土地にスタッフのために社宅群を作ったエリアは大映に変わってからも昭和30年代まで続き「日活村」「大映村」とも呼ばれた[3][4]
  • 1942年(昭和17年)1月 - 日活の製作部門が、戦時統制により大都映画および新興キネマと合併して、大日本映画制作株式会社(のちの大映)が設立された。京都に2か所、東京に3か所撮影所があったことから、同撮影所は大日本映画東京第二撮影所となった。新興キネマの東京撮影所(現在の東映東京撮影所)、大都映画の巣鴨撮影所は閉鎖された。
  • 1945年(昭和20年) - 第二次世界大戦の終結後に社名を「大映株式会社」に改め、同撮影所は大映東京撮影所となった。以後、大映倒産までの二十数年間、毎年30本前後の映画を製作する撮影所として、大手5社(一時6社)体制の一角を担った。
  • 1974年(昭和49年) - 同社が倒産を経て徳間書店の傘下となる。同撮影所は「大映映画株式会社」の事業所となる。東京都等に対して敷地を大幅に売却。
  • 1976年(昭和51年) - 旧敷地の南東部分に東京都立調布南高等学校が開校した。
  • 1977年(昭和52年) - 同撮影所が「株式会社大映映画撮影所」として分社化、大映映画撮影所となる。
  • 1983年(昭和58年) - 同撮影所の社名を「株式会社大映スタジオ」に変更、大映スタジオとなる。
  • 1994年(平成6年) - 株式会社大映スタジオが大映株式会社に吸収され、同撮影所は大映の一事業所「大映株式会社スタジオ事業本部」となる。
  • 2002年(平成14年) - 大映が角川グループに営業譲渡、「角川大映映画株式会社」が設立される。
  • 2004年(平成16年) - 角川映画誕生により、同撮影所の名称を正式に角川大映撮影所に変更した。
  • 2006年(平成18年) - スタジオ棟がオープン(ステージA〜D)。
  • 2011年(平成23年) - 角川書店が角川映画を吸収合併し、角川書店スタジオ事業本部になる。G棟(ステージG)/ポストプロ棟がオープン。
  • 2013年(平成25年)4月1日 - 角川書店からスタジオ事業本部を分離し、株式会社角川大映スタジオが発足。
  • 2022年(令和4年)7月1日 - プロダクション事業を吸収分割により株式会社KADOKAWAへ譲渡[5]
  • 2024年(令和6年)4月1日 - Cステージに横15m×縦5mのLEDウォールを設置。インカメラVFX対応型とする。

プロダクション事業

映画作品

テレビドラマ作品

ネットドラマ作品

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ a b c #外部リンク欄、角川大映スタジオ公式サイト内のabout, mapのページの記述を参照。二重リンクを省く。
  2. ^ 角川書店は2011年1月に角川映画を吸収合併して角川書店映画事業部とした後、2013年にKADOKAWAへ吸収合併された。

出典

  1. ^ 株式会社角川大映スタジオとの会社分割(簡易吸収分割)に係る分割契約締結に関するお知らせ”. 日本取引所グループ. 2022年5月6日閲覧。
  2. ^ a b 株式会社角川大映スタジオ 第11期決算公告
  3. ^ 日活・大映村の会 - 調布市 ちょうふどっとこむ
  4. ^ キネマ旬報』 2002年12月下旬号(NO.1370) p.118-119 「リレー・エッセイ 映画と私 173 高橋康夫」
  5. ^ KADOKAWA 角川大映スタジオのプロダクション事業を一体化へ”. 文化通信デジタル (2022年5月2日). 2022年5月6日閲覧。
  6. ^ ゼブラ”. CBCテレビ. 2020年1月28日閲覧。

外部リンク


大映東京撮影所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 04:49 UTC 版)

宮島健一」の記事における「大映東京撮影所」の解説

特筆以外すべて製作は「大映東京撮影所」、すべて配給は「大映」である。 『女囚36号』:監督久松静児1947年7月22日公開 - 伊藤巡査いつの日か花咲かん』:監督牛原虚彦1947年12月16日公開 - 山形の父、82分尺で現存NFC所蔵) 『オリオン星座』:監督田口哲1948年2月24日公開 - 刑事舞台廻る』:監督田中重雄1948年4月12日公開 - 節子の父 『三面鏡恐怖』:監督久松静児1948年6月14日公開 - 医者 『母』:監督小石栄一1948年8月23日公開 - 瀬川刑事73分尺で現存NFC所蔵) 『情熱人魚』:監督田口哲1948年11月22日公開 - 秋田63分尺で現存NFC所蔵) 『母紅梅』:監督小石栄一1949年1月24日公開 - 金田老人83分尺で現存NFC所蔵) 『静かなる決闘』:監督黒澤明1949年3月13日公開 - 骨董屋95分尺で現存NFC所蔵) 『美貌顔役』:監督吉村廉1949年5月23日公開 - 山川徳次郎流れる星は生きている』:監督小石栄一1949年9月18日公開 - 巡査三悪人赤ん坊』:監督小石栄一1950年11月3日公開 - 源作 『母月夜』:監督佐伯幸三1951年1月27日公開 - 矢田刑事誰が私を裁くのか』:監督谷口千吉1951年5月18日公開 - 裁判長江の島悲歌』:監督小石栄一1951年6月1日公開 - 船医の夜の恐怖』:監督久松静児1951年7月20日公開 - 谷村巡査稲妻』:監督成瀬巳喜男1952年10月9日公開 - バス老人客、87分尺で現存NFC所蔵) 『あにいもうと』:監督成瀬巳喜男1953年8月19日公開 - 喜三、86分尺で現存NFC所蔵) 『地の果てまで』:監督久松静児1953年10月20日公開 - 焼鳥屋無法者』:監督佐伯幸三1953年11月23日公開 - 深沢有造 『母の湖』:監督小石栄一1953年12月15日公開 - 中島春琴物語』:監督伊藤大輔1954年6月27日公開 - 加平真白き富士の根』:監督佐伯幸三1954年8月4日公開 - 大木校長火の女』:監督島耕二1954年10月6日公開 - 競技大会々長 『荒城の月』:監督枝川弘1954年11月3日公開 - 父 『馬賊芸者』:監督島耕二1954年11月17日公開 - 水田三七勝敗』:監督佐伯幸三1954年12月1日公開 - 植木屋亮助 『川のある下町の話』:監督衣笠貞之助1955年1月9日公開 - 役名不明108分尺で現存NFC所蔵) 『泣き笑い地獄極楽』:監督浜野信彦、1955年1月29日公開 - 高山 『暁の合唱』:監督枝川弘1955年3月18日公開 - 田辺巡査80分尺で現存NFC所蔵) 『薔薇いくたびか』:監督衣笠貞之助1955年4月24日公開 - 桐生茂吉爺、135分尺で現存NFC所蔵) 『幻の馬』:監督島耕二1955年7月20日公開 - 安田組合長90分尺で現存NFC所蔵) 『母笛子笛』:監督斎村和彦1955年8月3日公開 - 小児科病院長誘拐魔』:監督水野洽1955年10月12日公開 - 山川刑事見合い旅行』:監督枝川弘1955年11月15日公開 - 木村万平弾痕街』:監督斎村和彦1955年12月28日公開 - つりをする男 『花嫁ため息』:監督木村恵吾1956年1月9日公開 - 飲屋亭主 『恋と金』:監督枝川弘1956年1月22日公開 - 尾関東京犯罪地図』:監督村山三男1956年3月4日公開 - 神保赤線地帯』:監督溝口健二1956年3月18日公開 - ハナ江の客、85分尺で現存NFC所蔵) 『現金の寝ごと』:監督西村元男1956年4月4日公開 - 横山雄『火花』監督衣笠貞之助1956年5月1日公開 - 夜警A、101分尺で現存NFC所蔵) 『屋根裏女たち』:監督木村恵吾1956年5月14日公開 - 仙三 『魔の花嫁衣裳 前篇後篇』:監督浜野信彦、1956年7月12日公開 - 井口次郎 『母を求め子等』(『母を求め子ら』) : 監督清水宏1956年8月8日公開 - 五平じいさん惚れるな弥ン八』:監督村山三男1956年9月26日公開 - 曾根山儀平四十八歳の抵抗』:監督吉村公三郎1956年11月14日公開 - 役名不明108分尺で現存NFC所蔵) 『君を愛す』:監督田中重雄1956年12月28日公開 - 町田弘介 『情』:監督久松静児、製作東京映画配給東宝1957年3月20日公開 - 野口家番頭 由造 (大映) 『三十六人の乗客』:監督杉江敏男、製作東京映画配給東宝1957年4月16日公開 - 佐々木運転手大映) 『残月講道館』:監督村山三男1957年4月16日公開 - 石井哀愁列車』:監督枝川弘1957年5月13日公開 - 松本巡査九時間の恐怖』:監督島耕二1957年8月20日公開 - 千頭出張所望月健太黒帯先生』:監督原田治夫、1957年9月14日公開 - おじいちゃん駐在所日記』:監督枝川弘1957年11月5日公開 - 兵六老人白昼侵入者』:監督村山三男1957年12月14日公開 - 老金融業者大都会午前三時』:監督西条文喜1958年1月22日公開 - 稲田吉 『母』:監督田中重雄1958年3月5日公開 - 五兵衛一粒の麦』:監督吉村公三郎1958年9月14日公開 - 役名不明112分尺で現存NFC所蔵) 『情炎』:監督衣笠貞之助1959年3月17日 - 役名不明115分尺で現存NFC所蔵) 『女の教室』:監督渡辺邦男1959年4月8日 - 小左衛門川向うの白い道』:監督田中重雄1959年8月19日 - 平八郎さん 『浮草』:監督小津安二郎1959年11月17日公開 - 小川軒のあい子父親119分尺で現存NFC所蔵) 『流転の王妃』:監督田中絹代1960年1月27日公開 - 岡部102分尺で現存NFC所蔵) 『歌行燈』:監督衣笠貞之助1960年5月18日公開 - 役名不明113分尺で現存NFC所蔵) 『母』:監督枝川弘1960年11月16日公開 - 安吉 『女は夜化粧する』:監督井上梅次1961年1月14日公開 - クラブ経理小林みだれ髪』:監督衣笠貞之助1961年3月8日公開 - 重助95分尺で現存NFC所蔵『五人の突撃隊』監督井上梅次1961年4月26日公開 - 役名不明118分尺で現存NFC所蔵) 『新人劇場』:監督弓削太郎1961年5月31日公開 - 車嘉平太 『鯨神』:監督田中徳三1962年7月15日公開 - 大別当秦・始皇帝』:監督田中重雄1962年11月1日公開 - 儒者C 『温泉芸者』:監督富本壮吉1963年2月7日公開 - 米吉背広忍者』:監督弓削太郎1963年2月9日公開 - 磯村卓造 『嘘』:監督増村保造吉村公三郎衣笠貞之助1963年3月31日公開 - 役名不明99分尺で現存NFC所蔵) 『若い樹々』:監督原田治夫、1963年4月14日公開 - 三沢松太郎無茶な奴』:監督島耕二1964年7月4日公開 - ジャリ組合幹部 『黒の切り札』:監督井上梅次1964年7月25日公開 - 根来信通 『六人の女を殺した男』:監督島耕二1965年7月31日公開 - パリ祭の客

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