大映社長としてとは? わかりやすく解説

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大映社長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:54 UTC 版)

菊池寛」の記事における「大映社長として」の解説

大映社長就任挨拶菊池は「ぼくは社長として値打ち何もないが、製作する全作品シナリオ読んでくれればいいということなので、それならぼくにもできそうだ思ったから社長引き受けた」と話し稲垣浩らはその淡々とした話しぶり飾らない様子に、大きな拍手送ったという。 なお、その際卓上ハンカチ忘れ一同の眼が集まったが、その白いハンカチ生き物のように菊池の後を追って動き壇上から滑り落ちた事務の者が慌てて走り寄って拾い上げようとすると、菊池はそれに気づき、服から垂れた糸を引っ張って手品のようにハンカチ手元引き上げた短時間だがそのユーモラスな光景対し会場聴衆はどっと好感笑い巻き起こしたが、菊池ニタリともせず無造作にハンカチポケットねじ込み静かに席に戻って行った。これは、菊池がよくハンカチ落とした忘れたりし、戦時下衣料品切符制だった事情から新調困難だったので、夫人が紐を付けてポケット縫い付けたものであった稲垣が『お馬三十三万石』というシナリオ書いたとき、競馬愛好家だった(後述菊池は「馬の話だ」ということでとくに念入りに読んでいろいろと意見出し、「君これは鍋島藩になってるけどネ、佐賀馬産ではないから駄目だね、福島南部改めてはどうだ」と言った稲垣が「阿蘭陀人が出ますからどうしても九州でないと困るのですが」と答えると、「それなら島津がいいだろう」、「でも(鍋島の)三十三万石という題名がいいと思うのですが」とさらに答えると菊池は「なに、島津なら七十万石だから、そのほうがずっと大きくていいよキミ」と返した稲垣は「やはり役者が何かうわてだった」と語っている。

※この「大映社長として」の解説は、「菊池寛」の解説の一部です。
「大映社長として」を含む「菊池寛」の記事については、「菊池寛」の概要を参照ください。


大映社長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 10:01 UTC 版)

永田雅一」の記事における「大映社長として」の解説

社員をすべて縁故固め、その息子親戚採用し、自らをカリスマ化した映画企画もすべて永田意見決められた。監督森一生は「企画をいくら出して一本も通らなかった。しまいには芸者聞いたらこんなもんあかんゆうた』と言われた。」と述懐している。こうした公私混同とは別に大映企画副部長務めた奥田久司は「功罪のうちの功」として、永田他社先駆けて1947年ごろに「定年60年制」を独断採用したことを挙げている(他の映画会社は現在も「定年55年制」である)。 1951年後述する様に個人所有していた競走馬トキノミノル10全勝東京優駿日本ダービー)を優勝するその3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリアカデミー外国語映画賞受賞この様大きな栄誉それぞれ永田大映作品にあったこの1951年こそが、若いころ刻苦乗り越え、やがて強運掴んで上り詰めた永田人生絶頂であったと見る向きもある。その一方では、トキノミノル東京優駿からわずか半月後に急死してしまうというアクシデント起きていた。 とはいえ、この『羅生門』の受賞契機としてその後も『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)等の国際的に名声得た大作手掛ける一方日本初70ミリ映画釈迦』も手掛けた。 『地獄門』では、企画会議全社員が反対するなか、「そんなら一人でやる!」と強引に製作。その結果カンヌ国際映画祭グランプリを獲っており、アカデミー特別賞受賞一方多数証言一致する点では、永田は『羅生門』では制作立案段階で無関心であった試写では途中で席を立ったその後も、海外続々受賞し始めるまで、「なんや、サッパリわからん」と、自分会社作品こき下ろしていた。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後自分功績並べ立てた黒澤顕彰の証を渡さず大映本社飾った永田に対して当時狂句は「黒澤明グランプリ永田雅一シランプリ」と揶揄している。1954年には菊池寛賞受賞した大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対自信持ちそれ故プロ野球以外副業には殆ど関心を示さなかった。映画の製作配給行っても、興行はほとんど既存地方興行主に任せており、直営映画館皆無近かった東宝小林一三も「君はグランプリ・プロデューサーだから興行みたいなチマチマしたことはせずに製作すれば必ず僕のところで上映しよう」と言ったとされる1953年には、松竹東宝東映新東宝呼びかけ五社協定締結主導。各映画会社所属する技術者俳優他社への出演原則禁止した五社協定1954年戦前映画制作再開させた日活へ対抗策として発足したが、1958年その日活も加わってテレビ業界へ対抗策化した悪名高き六社協定発展する1961年新東宝倒産して五社協定に戻る)。後にこの協定絡み大映看板スターだった山本富士子田宮二郎永田との確執から大映退社し丸井太郎ガス自殺した。その一方で日本テレビ創立の際に出資しフジテレビには親会社一角として経営参加していたものの、余りテレビには関心を示さなかった。 この様状況で、「永田ラッパ」と呼ばれたワンマン放漫経営弊害年を追う毎に色濃くなってきたが、極端なワンマン経営およびその性格ゆえに周囲から永田諫言できる人物もおらず、1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽不振の中で、ほとんど製作本位大作主義だった大映ジリ貧追い込まれてゆく。その中にあって長谷川一夫引退上記山本田宮解雇勝新太郎独立養女永田雅子結婚させていわば娘婿の関係にあった市川雷蔵ガン死1969年)、大型新人スター不在といった問題重く伸し掛かり、ついに1971年12月23日東京地方裁判所より破産宣告を受け、倒産倒産間際湯浅憲明が、組合からの突き上げ食らいながら完成させた、永田大映最後の映画作品成熟』(1971年)の本社試写では「出来たのか、出来たのか」と女子職員支えられながら号泣湯浅も「あの怪物が」と複雑な心境だったというが、いつもの永田節聞かされてきた社員たちは、この期に及んで半信半疑だったという。また、倒産間近となったとき永田社宅の前で、「ここは抵当入っている、諸君にはどうか倒産させないためにも、ここ(社宅)を出て行ってもらえないか」と頼み込んだ。その社宅は、約20年前に永田社員向かって諸君、ここには今何もないが、いずれプール遊園地造る、ここにいる赤ん坊20歳になったときには素晴らし施設完成しているだろう!」との大見得を切りながら演説した場所だった。その場にいた20歳青年たちからあの時約束どうしたプール遊園地どうした!」と罵声浴びせられ、これにショック受けた永田卒倒寸前となり、腕を抱えられながら退場したという。 それでも、永田1976年永田プロダクション設立同年永田跡を継ぐことを狙っていた徳間康快徳間書店の子会社となって映画製作復帰していた大映作品映画君よ憤怒の河を渉れ』にプロデューサーとして参加することで、映画界復帰した。 熱心な日蓮宗信者として知られ晩年には萬屋錦之介初代中村錦之助主演映画日蓮』を製作した

※この「大映社長として」の解説は、「永田雅一」の解説の一部です。
「大映社長として」を含む「永田雅一」の記事については、「永田雅一」の概要を参照ください。

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