大映社長として
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大映社長就任の挨拶で菊池は「ぼくは社長としての値打ちは何もないが、製作する全作品のシナリオを読んでくれればいいということなので、それならぼくにもできそうだと思ったから社長を引き受けた」と話し、稲垣浩らはその淡々とした話しぶりや飾らない様子に、大きな拍手を送ったという。 なお、その際、卓上にハンカチを忘れ、一同の眼が集まったが、その白いハンカチは生き物のように菊池の後を追って動き、壇上から滑り落ちた。事務の者が慌てて走り寄って拾い上げようとすると、菊池はそれに気づき、服から垂れた糸を引っ張って手品のようにハンカチを手元に引き上げた。短時間だがそのユーモラスな光景に対し、会場の聴衆はどっと好感の笑いを巻き起こしたが、菊池はニタリともせずに無造作にハンカチをポケットにねじ込み静かに席に戻って行った。これは、菊池がよくハンカチを落としたり忘れたりし、戦時下で衣料品が切符制だった事情から新調が困難だったので、夫人が紐を付けてポケットに縫い付けたものであった。 稲垣が『お馬三十三万石』というシナリオを書いたとき、競馬愛好家だった(後述)菊池は「馬の話だ」ということでとくに念入りに読んで、いろいろと意見を出し、「君これは鍋島藩になってるけどネ、佐賀は馬産地ではないから駄目だね、福島か南部に改めてはどうだ」と言った。稲垣が「阿蘭陀人が出ますからどうしても九州でないと困るのですが」と答えると、「それなら島津がいいだろう」、「でも(鍋島の)三十三万石という題名がいいと思うのですが」とさらに答えると菊池は「なに、島津なら七十七万石だから、そのほうがずっと大きくていいよキミ」と返した。稲垣は「やはり役者が何枚かうわてだった」と語っている。
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大映社長として
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社員をすべて縁故で固め、その息子や親戚を採用し、自らをカリスマ化した。映画の企画もすべて永田の意見で決められた。監督の森一生は「企画をいくら出しても一本も通らなかった。しまいには『芸者に聞いたらこんなもんあかんゆうた』と言われた。」と述懐している。こうした公私混同とは別に、大映の企画副部長を務めた奥田久司は「功罪のうちの功」として、永田が他社に先駆けて1947年ごろに「定年60年制」を独断で採用したことを挙げている(他の映画会社は現在も「定年55年制」である)。 1951年、後述する様に個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝する。その3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞を受賞。 この様に大きな栄誉がそれぞれ永田と大映作品にあったこの1951年こそが、若いころの刻苦を乗り越え、やがて強運を掴んで上り詰めた永田の人生の絶頂点であったと見る向きもある。その一方では、トキノミノルが東京優駿からわずか半月後に急死してしまうというアクシデントも起きていた。 とはいえ、この『羅生門』の受賞を契機としてその後も『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)等の国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。 『地獄門』では、企画会議で全社員が反対するなか、「そんなら俺一人でやる!」と強引に製作。その結果、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲っており、アカデミー特別賞も受賞。一方、多数の証言が一致する点では、永田は『羅生門』では制作立案の段階で無関心であった。試写では途中で席を立った。その後も、海外で続々と受賞し始めるまで、「なんや、サッパリわからん」と、自分の会社の作品をこき下ろしていた。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を並べ立てた。黒澤へ顕彰の証を渡さず大映本社に飾った永田に対して、当時の狂句は「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄している。1954年には菊池寛賞を受賞した。 大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それ故プロ野球以外の副業には殆ど関心を示さなかった。映画の製作・配給は行っても、興行はほとんど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。東宝の小林一三も「君はグランプリ・プロデューサーだから興行みたいなチマチマしたことはせずに製作すれば必ず僕のところで上映しよう」と言ったとされる。1953年には、松竹、東宝、東映、新東宝に呼びかけ五社協定締結を主導。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止した。五社協定は1954年に戦前の映画制作を再開させた日活への対抗策として発足したが、1958年にその日活も加わって、テレビ業界への対抗策と化した悪名高き六社協定に発展する(1961年に新東宝が倒産して五社協定に戻る)。後にこの協定に絡み、大映の看板スターだった山本富士子や田宮二郎が永田との確執から大映を退社し、丸井太郎はガス自殺した。その一方で、日本テレビ創立の際に出資し、フジテレビには親会社の一角として経営に参加していたものの、余りテレビには関心を示さなかった。 この様な状況で、「永田ラッパ」と呼ばれたワンマンな放漫経営の弊害は年を追う毎に色濃くなってきたが、極端なワンマン経営およびその性格ゆえに周囲から永田に諫言できる人物もおらず、1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、ほとんど製作本位で大作主義だった大映はジリ貧に追い込まれてゆく。その中にあって長谷川一夫の引退、上記の山本・田宮の解雇、勝新太郎の独立、養女の永田雅子と結婚させていわば娘婿の関係にあった市川雷蔵のガン死(1969年)、大型新人スター不在といった問題が重く伸し掛かり、ついに1971年12月23日に東京地方裁判所より破産宣告を受け、倒産。倒産間際に湯浅憲明が、組合からの突き上げを食らいながら完成させた、永田大映最後の映画作品『成熟』(1971年)の本社試写では「出来たのか、出来たのか」と女子職員に支えられながら号泣。湯浅も「あの怪物が」と複雑な心境だったというが、いつもの永田節を聞かされてきた社員たちは、この期に及んでも半信半疑だったという。また、倒産間近となったとき永田は社宅の前で、「ここは抵当に入っている、諸君にはどうか倒産させないためにも、ここ(社宅)を出て行ってもらえないか」と頼み込んだ。その社宅は、約20年前に永田が社員に向かって「諸君、ここには今何もないが、いずれプールや遊園地を造る、ここにいる赤ん坊が20歳になったときには素晴らしい施設が完成しているだろう!」との大見得を切りながら演説した場所だった。その場にいた20歳の青年たちから「あの時の約束はどうした、プールや遊園地はどうした!」と罵声が浴びせられ、これにショックを受けた永田は卒倒寸前となり、腕を抱えられながら退場したという。 それでも、永田は1976年に永田プロダクションを設立。同年、永田の跡を継ぐことを狙っていた徳間康快の徳間書店の子会社となって映画製作に復帰していた大映作品の映画『君よ憤怒の河を渉れ』にプロデューサーとして参加することで、映画界に復帰した。 熱心な日蓮宗信者としても知られ、晩年には萬屋錦之介(初代中村錦之助)主演で映画『日蓮』を製作した。
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