大映時代
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『海の呼ぶ聲』(1945年、伊賀山正徳監督、小崎政房脚本)デビュー作 『絢爛たる復讐』(1946年、小石栄一・吉村廉共同監督) 『盗まれかけた音楽祭』(1946年、久松静児監督、高岩肇脚本) 『キャバレの花籠』(1947年、山本弘之監督・脚本)日本映画協会・技術賞受賞、日本初のフジカラー作品、大映富士製作 『夜行列車の女』(1947年、田中重雄監督、伊藤大輔・小森静男共同脚本) 『オリオン星座』(1948年、田口哲監督・脚本) 『親馬鹿大将』(1948年、春原政久監督、山本嘉次郎脚本) 『夜のプラットホーム』(1948年、田口哲監督、八木保太郎脚本) 『情熱の人魚』(1948年、田口哲監督、村松俊雄脚本) 『検事と女看守』(1949年、吉村廉監督、舘岡謙之助脚本、伊福部昭音楽) 『美貌の顔役』(1949年、吉村廉監督、植草圭之介脚色、菅英久原案) 『大都会の丑満時』(1949年、西村元男監督、笠原良三脚本) 『涙の港』(1949年、春原政久監督、館岡謙之介脚本) 『歌の明星』(1949年、佐伯幸三監督、館岡謙之介・棚田吾郎共同脚本、服部良一音楽) 『一匹狼』(1950年、小石栄一監督、八木隆一郎脚本) 『私は狙われている』(1950年、森一生監督、松浦健郎脚本) 『蜘蛛の街』(1950年、鈴木英夫監督、高岩肇脚本) 『午前零時の出獄』(1950年、小石栄一監督、成沢昌茂脚本) 『三惡人と赤ん坊』(1950年、小石栄一監督、柳川真一脚本、姫田真佐久撮影) 『恋の阿蘭陀坂』(1951年、鈴木英夫監督、松田昌一脚本) 『西城家の饗宴』(1951年、鈴木英夫監督、新藤兼人脚本) 『歌う野球小僧』(1951年、渡辺邦男監督・脚本、久米正雄原作、服部良一・灰田勝彦共同音楽) 『炎の肌』(1951年、久松静児監督、八住利雄脚本) 『浅草紅園』(1952年、久松静児監督、成沢昌茂脚本、川端康成『浅草物語』原作) 『生き残った辦天様(べんてんさま)』(1952年、久松静児監督、高岩肇脚本、J・C・ミラゾー原作、服部良一音楽) 『猛獣使いの少女』(1952年、佐伯幸三監督、井手俊郎・井上梅次共同脚本) 『二つの處女線(しょじょせん)』(1952年、久松静児監督、三枝皓(ひかる)脚本) 『明日は日曜日』(1952年、佐伯幸三監督、須崎勝彌(かつみ)脚本) 『乾杯! 東京娘』(1952年、木村恵吾監督・脚本) 『現代處女』(1953年、佐伯幸三監督、須崎勝彌・赤坂長義共同脚本) 『丹波』(1953年、小石栄一監督、田辺朝治脚本) 『胡椒息子』(1953年、島耕二監督・脚本、田辺朝治共同脚本) 『雁』(1953年、豊田四郎監督、成沢昌茂脚本、森鷗外原作、團伊玖磨音楽)伊藤善朔との共同美術 『浅草物語』(1953年、島耕二監督、川端康成原作) 『紅椿』(1953年、吉村廉監督、中江良夫脚本) 『十代の誘惑』(1953年、久松静児監督、須崎勝彌脚本) 『或る女』(1954年、豊田四郎監督、八住利雄脚色、有島武郎原作、團伊玖磨音楽) 『春琴物語』(1954年、伊藤大輔監督、八尋不二脚本、谷崎潤一郎原作、伊福部昭音楽)伊藤善朔との共同美術、大映最後の作品。
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大映時代
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23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー。大映社長の永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった。同年代の雷蔵・山本富士子・若尾文子が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、憧れの長谷川一夫そっくりのメイクも板につかず、主演作のあまりの不人気ぶりに映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」との苦情が絶えず寄せられるほどだったが、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新させることとなる。 1961年、二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映に在籍していた女優の中村玉緒と婚約。玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)などで共演している。この映画が初のヒットとなりシリーズ化。1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。続く『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得。1963年に長谷川・山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。これ以降、1969年7月17日に雷蔵が死去するまで、大映の2枚看板として「カツライス」と称され、その屋台骨を支えた。特に一連の座頭市シリーズはアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている。
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大映時代
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1959年(昭和34年)、松竹京都撮影所で松竹映画の『高丸菊丸 疾風篇』(丸根賛太郎監督)に参加。これをきっかけに武蔵野美大を中退。大映の美術スタッフとなる。大映の美術スタッフの八木正夫(1957年入社)と懇意となる。 1961年(昭和36年)、大映京都撮影所で日本初の70mm総天然色スペクタクル映画『釈迦』(三隅研次監督)に参加。 1962年(昭和37年)、『鯨神』(田中徳三監督)に参加。 1963年(昭和38年)、大映東京撮影所で、特撮パニック映画『大群獣ネズラ』に参加するが、「生きたネズミを使う」という撮影方法が衛生問題(#人物・エピソードにて後述)となり、組合争議にまで発展して撮影中途で頓挫。 1965年(昭和40年)、大映の井上章の招きにより、同社初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)の特殊美術を担当。この映画では前年大映を退社していた八木正夫がガメラの特殊造形を担当しており、大映には怪獣造形、ミニチュア制作含めて大規模特撮の技術も技術者もなかったため、八木は村瀬継蔵や三上を集めて、特撮美術全般をまかなった。 この時集まったメンバーで、八木正夫が造形会社「エキスプロダクション」を創設。三上も役員としてこれに参加。営業も含め、映画美術全般の進行を務める。
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大映時代
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1956年(昭和31年)、大映東京撮影所に請われ、翌年公開のSF怪奇映画『透明人間と蝿男』(村山三男監督)の特撮技術者として大映に入社。 以降、主に本編美術を担当するが、東宝での経験からミニチュア撮影などの特撮美術も手掛けた。 1963年(昭和38年)、築地米三郎の発案で、特撮パニック映画『大群獣ネズラ』が企画される。巨大ネズミ「ネズラ」のぬいぐるみの製作を依頼されるが、これを断る。大映はこの後、高山良策にネズラを製作してもらったが、結局「生きたネズミを使う」という撮影手法に変更。これが衛生問題となり、組合争議にまで発展して撮影中途で頓挫。八木も大映を退社する。 1964年(昭和39年)、日本テレビで本編美術に携わる。 1965年(昭和40年)、大映初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)で、怪獣「ガメラ」のぬいぐるみを製作する。大映には怪獣造形、ミニチュア制作含めて大規模特撮の技術も技術者もなかったため、八木は村瀬継蔵や三上陸男、鈴木昶らを集めて、特撮美術全般から、操演など撮影補助までをまかなった。当初造型制作を行っていた撮影所の一角が使用できなくなったため、自宅にプレハブの作業場を設ける。
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