大映時代とは? わかりやすく解説

大映時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 14:32 UTC 版)

木村威夫」の記事における「大映時代」の解説

『海の呼ぶ聲』(1945年伊賀山正徳監督小崎政房脚本デビュー作絢爛たる復讐』(1946年小石栄一吉村廉共同監督) 『盗まれかけた音楽祭』(1946年久松静児監督高岩肇脚本) 『キャバレの花籠』(1947年山本弘監督・脚本日本映画協会技術賞受賞日本初フジカラー作品大映富士製作 『夜行列車の女』(1947年田中重雄監督伊藤大輔小森静男共同脚本) 『オリオン星座』(1948年田口哲監督・脚本) 『親馬鹿大将』(1948年、春原政久監督山本嘉次郎脚本) 『夜のプラットホーム』(1948年田口哲監督八木保太郎脚本) 『情熱人魚』(1948年田口哲監督村松俊雄脚本) 『検事と女看守』(1949年吉村廉監督、舘岡謙之助脚本伊福部昭音楽) 『美貌顔役』(1949年吉村廉監督植草圭之介脚色久原案) 『大都会丑満時』(1949年西村元男監督笠原良三脚本) 『涙の港』(1949年、春原政久監督、館岡謙之介脚本) 『歌の明星』(1949年佐伯幸三監督、館岡謙之介・棚田吾郎共同脚本服部良一音楽) 『一匹狼』(1950年小石栄一監督八木隆一郎脚本) 『私は狙われている』(1950年森一生監督松浦健郎脚本) 『蜘蛛の街』(1950年鈴木英夫監督高岩肇脚本) 『午前零時の出獄』(1950年小石栄一監督成沢昌茂脚本) 『三惡人赤ん坊』(1950年小石栄一監督柳川真一脚本姫田真佐久撮影) 『恋の阿蘭陀坂』(1951年鈴木英夫監督松田昌一脚本) 『西城家の饗宴』(1951年鈴木英夫監督新藤兼人脚本) 『歌う野球小僧』(1951年渡辺邦男監督・脚本久米正雄原作服部良一灰田勝彦共同音楽) 『炎の肌』(1951年久松静児監督八住利雄脚本) 『浅草紅園』(1952年久松静児監督成沢昌茂脚本川端康成浅草物語原作) 『生き残った辦天様(べんてんさま)』(1952年久松静児監督高岩肇脚本J・C・ミラゾー原作服部良一音楽) 『猛獣使い少女』(1952年佐伯幸三監督井手俊郎井上梅次共同脚本) 『二つ處女線(しょじょせん)』(1952年久松静児監督三枝皓(ひかる)脚本) 『明日日曜日』(1952年佐伯幸三監督須崎勝彌(かつみ)脚本) 『乾杯! 東京娘』(1952年木村恵吾監督・脚本) 『現代處女』(1953年佐伯幸三監督須崎勝彌赤坂長義共同脚本) 『丹波』(1953年小石栄一監督田辺朝治脚本) 『胡椒息子』(1953年島耕二監督・脚本田辺朝治共同脚本) 『雁』(1953年豊田四郎監督成沢昌茂脚本森鷗外原作團伊玖磨音楽伊藤善朔との共同美術浅草物語』(1953年島耕二監督川端康成原作) 『紅椿』(1953年吉村廉監督中江良夫脚本) 『十代の誘惑』(1953年久松静児監督須崎勝彌脚本) 『或る女』(1954年豊田四郎監督八住利雄脚色有島武郎原作團伊玖磨音楽) 『春琴物語』(1954年伊藤大輔監督八尋不二脚本谷崎潤一郎原作伊福部昭音楽伊藤善朔との共同美術大映最後作品

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大映時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:54 UTC 版)

勝新太郎」の記事における「大映時代」の解説

23歳時に大映京都撮影所契約1954年の『花の白虎隊』でデビュー大映社長永田雅一は勝を可愛がり白塗り二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うよう人気が出なかった。同年代雷蔵山本富士子若尾文子早々スターとして活躍していくのとは対照的に憧れ長谷川一夫そっくりのメイクも板につかず主演作のあまりの不人気ぶりに映画館館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画作るはやめてくれ」との苦情絶え寄せられるほどだったが、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧演じたことにより、それまで評価一新させることとなる。 1961年二代目中村鴈治郎長女で同じ大映在籍していた女優中村玉緒婚約玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した悪名』(田中徳三監督今東光原作依田義賢脚本田宮二郎共演)などで共演している。この映画が初のヒットとなりシリーズ化1962年3月5日永田媒酌結婚。続く『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動人気獲得1963年長谷川山本大映退社する中、勝は一躍大映大黒柱一人となる。これ以降1969年7月17日雷蔵死去するまで、大映2枚看板として「カツライス」と称され、その屋台骨支えた。特に一連の座頭市シリーズアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている。

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大映時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 07:19 UTC 版)

三上陸男」の記事における「大映時代」の解説

1959年昭和34年)、松竹京都撮影所松竹映画の『高丸菊丸 疾風篇』(丸根賛太郎監督)に参加。これをきっかけ武蔵野美大中退大映美術スタッフとなる。大映美術スタッフ八木正夫1957年入社)と懇意となる。 1961年昭和36年)、大映京都撮影所日本初の70mm総天然色スペクタクル映画釈迦』(三隅研次監督)に参加1962年昭和37年)、『鯨神』(田中徳三監督)に参加1963年昭和38年)、大映東京撮影所で、特撮パニック映画大群獣ネズラ』に参加するが、「生きたネズミを使う」という撮影方法衛生問題(#人物エピソードにて後述)となり、組合争議にまで発展して撮影中途頓挫1965年昭和40年)、大映井上章招きにより、同社初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』湯浅憲明監督)の特殊美術担当。この映画では前年大映退社していた八木正夫ガメラの特殊造形担当しており、大映には怪獣造形ミニチュア制作含めて大規模特撮技術技術者もなかったため、八木村瀬継蔵三上集めて特撮美術全般をまかなった。 この時集まったメンバーで、八木正夫造形会社エキスプロダクション」を創設三上役員としてこれに参加営業含め映画美術全般進行務める。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 07:14 UTC 版)

八木正夫」の記事における「大映時代」の解説

1956年昭和31年)、大映東京撮影所請われ翌年公開SF怪奇映画透明人間と蝿男』(村山三男監督)の特撮技術者として大映入社以降、主に本編美術担当するが、東宝での経験からミニチュア撮影などの特撮美術手掛けた1963年昭和38年)、築地米三郎発案で、特撮パニック映画大群獣ネズラ』が企画される巨大ネズミネズラ」のぬいぐるみの製作を依頼されるが、これを断る。大映この後高山良策ネズラ製作してもらったが、結局生きたネズミを使う」という撮影手法変更。これが衛生問題となり、組合争議にまで発展して撮影中途頓挫八木大映退社する1964年昭和39年)、日本テレビ本編美術携わる1965年昭和40年)、大映初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』湯浅憲明監督)で、怪獣ガメラ」のぬいぐるみ製作する大映には怪獣造形ミニチュア制作含めて大規模特撮技術技術者もなかったため、八木村瀬継蔵三上陸男鈴木昶らを集めて特撮美術全般から、操演など撮影補助までをまかなった当初造型制作行っていた撮影所一角使用できなくなったため、自宅プレハブ作業場設ける。

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