大映・新東宝時代
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1942年(昭和17年)、日活が戦時統合により大映に改組されたことで、大映京都撮影所へ移る。同年の『鞍馬天狗』(伊藤大輔監督)が大映移籍後の主演第1作となる。同作の立ち回りでは「裾さばきが乱れないこと」が特徴とされ、「林長二郎と同じく女形出身だから」と、どんなチャンバラでも裾の乱れは見せなかった。同作で伊藤監督は、アラカンに百メートル疾走する立ち回りを要求し、出来あがった映画で裾さばきが乱れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです」と評している。このころから、一座を組み中国大陸の慰問活動を熱心に行っている。 1948年(昭和23年)、大映京都を退社してフリーとなる。この頃はGHQのチャンバラ禁止令により剣戟映画の製作が禁止されていたため、『私刑』等の現代劇に出演していた。1950年(昭和25年)、綜芸プロダクションを設立。 1956年(昭和31年)、新東宝に入社。新東宝では数少ないスター俳優として活躍し、翌1957年(昭和32年)公開の『明治天皇と日露大戦争』では明治天皇を演じる。同作では、大蔵貢社長じきじきに「日本映画界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、アラカンは余りの大役に戸惑いつつも、御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記録する。続けて『天皇・皇后と日清戦争』『明治大帝と乃木将軍』でも明治天皇を演じている。ほか、『大東亜戦争と国際裁判』では東條英機、『皇室と戦争とわが民族』では神武天皇を演じるなど歴史上の大人物を演じることが多かった。 1961年(昭和36年)に新東宝が倒産すると、以後はどこにも専属せず、脇役に回った。
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