東映時代
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1961年(昭和36年)、東映と専属契約を結ぶ。6月23日公開の『花と嵐とギャング』が東映(ニュー東映)での第1作。 1965年(昭和40年)4月18日、『網走番外地』(高倉健主演)公開。連続してNo.1ヒットし、高倉とのコンビでシリーズ10作を世に送り出す。
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東映時代
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東映へは春季キャンプ開始後の入団であったため江本は直ちにキャンプ地の伊東に向かい、翌16日にチームに合流した。キャンプに最初から参加していなかった江本は調整の遅れを取り戻すため、土橋正幸投手コーチから主力打者三人を相手にフリーバッティングで登板するよう命じられたが、調整不足と緊張から全くストライクが入らず、白仁天と大杉勝男の二人に10球連続でボール球を投げてしまい「ストライク入らんヤツが、プロのピッチャーか!」と激怒された。しかし最後に打席に立った張本勲は、ボールゾーンに外れた初球を平然と打ち返すと、その後も手の届く範囲に来たボールは高低・内外を問わず自由自在に打ち返し、そのおかげで落ち着きを取り戻した江本は次第にストライクゾーンに球がいくようになった。江本は自著で「この年(1971年)に入団した中では100人いたら(自分は)100番目の選手だ。ドラフト外として最後の最後にプロ入りしたルーキーが開幕一軍に食い込むことが出来たのも、あのフリー打撃があったから。これは全て張本さんのおかげ。間違いなく大恩人の一人だ」と張本への感謝を述べている。 自信を回復した江本は紅白戦を通じて調子を上げてキャンプを乗り切ると、3月からのオープン戦では一軍メンバーに加わり、公式戦でも開幕一軍スタートを勝ち取った。プロ初登板は4月11日の対西鉄ライオンズ戦(平和台球場)だったが、連続四球と安打を浴び、2失点で終わった。この年は26試合で未勝利(4敗)に終わると、同年オフに高橋博士との交換トレードで、佐野嘉幸と共に南海ホークスへの移籍が決まり、入団後僅か一年で所属チームが変わることとなった。 この南海へのトレードについては、見る目の無い東映では江本は全く鳴かず飛ばずであったが、その潜在能力を見出した監督の野村克也がさも江本に興味の無いようなそぶりをして獲得し、一から江本を育て上げたとされている。しかし江本はこの風説を強く否定しており、自分は土橋投手コーチから成長株として大いに期待され、秋季キャンプでも翌年から本格的に先発投手陣の一角に加われるようにと土橋から課された猛練習をこなしていて、東映で土橋に基礎力を徹底的に鍛え上げてもらったおかげで「投げられるピッチャー・江本」に育っていたところを、移籍先の南海で監督として居合わせた野村が「勝てるピッチャー・江本」にしたのである。と明言している。
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東映時代
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東映に移籍はしたものの、ほとんどセリフの付かない役ばかりで、役を貰えないかと新東宝仲間である石川義寛監督の下宿を訪ねることもあったといい、東映京都撮影所作品『怪猫呪いの沼』(1968年)での端役も、石川監督が気の毒がって起用したものだったという。翌1969年(昭和44年)の『現代やくざ 与太者の掟』が、東映での初主役作となる。この『現代やくざ』シリーズは1972年(昭和47年)まで続く作品群で、ヤクザを美化した従来の任侠映画ではなく、現実的な「ワル」を主人公にしたものであり、後の実録映画の先駆けとなった。また、同年には『関東テキヤ一家』シリーズ、1971年(昭和46年)からは『まむしの兄弟』シリーズに主演。 1973年(昭和48年)から始まった『仁義なき戦い』シリーズで、東映を代表するスターのひとりになった。映画史に残る作品にもなったこのシリーズのヒットで東映は任侠路線から実録路線に転換、1974年(昭和49年)末からスタートした『新仁義なき戦い』シリーズや1975年(昭和50年)に始まる『トラック野郎』シリーズ(一番星・星桃次郎 役)もヒットした。
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東映時代
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永田の言葉に激怒した千恵蔵は、比佐芳武らとともに「金田一耕助」シリーズで縁のある東横映画へ移籍した。昭和26年(1951年)に東京映画配給が東横と太泉映画を吸収合併し、東映が創立されると、千恵蔵は取締役に就任し、市川右太衛門とともに“重役兼トップスター”として会社を牽引していくことになった。以後の千恵蔵には、経営者としての視点から映画作品をとらえる姿勢が見られる。ほどなく占領時代は終わり、剣劇(チャンバラ時代劇)が解禁されることになるが、「多羅尾伴内」や「金田一耕助」「にっぽんGメン」など千恵蔵・比佐・松田たちトリオが戦後に開拓してきた大好評の現代劇シリーズも東映で引き続き活かされることになった。 昭和28年(1953年)、多羅尾伴内シリーズ再開第1作『片目の魔王』が比佐脚本・佐々木康監督・千恵蔵主演により東映京都撮影所で撮影され、花柳小菊・千原しのぶ・原健策・加賀邦男・進藤英太郎ら東映時代劇初期の常連俳優たちが出演した。もともと「多羅尾伴内」などの現代ミステリ映画は剣劇禁止期間の代替作品であり、大映時代から京都で撮影されてきた。しかし、重役となった千恵蔵は「京都撮影所=時代劇、東京撮影所=現代劇」という役割分担を考慮したと考えられ、再開2作目以降はすべて東映東京撮影所(東京都練馬区東大泉)で撮影されることになった。東京撮影所に移ってからの出演者は、高倉健・南原伸二・波島進・中原ひとみ・江原真二郎・佐久間良子・安宅淳子・中村雅子・山本麟一・潮健二といった東映東京の新人俳優たちが多く出演、東映作品での相棒「大沢警部」は宇佐美淳也(宇佐美諄)・山形勲など東映東京の常連たちが交替で演じている。敵役の犯罪団のボス役は、名優進藤英太郎が当たり役。また、かつての黄金トリオの松田定次監督も東映随一の監督として活躍し、伴内シリーズも何本か手がけている。東映時代の作品では、昭和30年(1955年)の3作目『隼の魔王』(松田定次監督の復帰作)が特に評価が高い。日本映画極盛期である昭和33年(1958年)の東映6作目『十三の魔王』では、シリーズ初のカラー&大画面の「東映スコープ」となり、大女優の高峰三枝子がヒロイン、国際的名優の志村喬(東宝)が端役の悪党を演じるという豪華キャストであった。 内容的には、大映時代が試行錯誤の時期で変化に富んでいたのと比べると、東映時代はより定型パターン化が進み、さらに娯楽色が強まった。主人公自身の描写も、大映時代は陰影のある人間味を出していたが、東映時代の後期になるにつれて完全無欠なヒーロー像が固定化していった。それとともに、同時期に製作されていた東映時代劇における千恵蔵の十八番となった「遠山の金さん」シリーズとは互いに影響を及ぼしあってゆく。遠山の金さんが多羅尾伴内のごとく次々と変装をするかと思えば、多羅尾伴内は事件の大団円において遠山奉行のお白洲を思わせるような一段高い所から悪人どもの罪を裁き、金さんが桜吹雪の刺青を露わにするがごとくに多羅尾伴内は変装をかなぐり捨てて正体を現わすという具合である。もともと伴内シリーズは、時代劇のチャンバラを拳銃による銃撃戦に置き換えたものであるから、両者は同類のものと見ることもできる。ちなみに、東映・金田一耕助シリーズの『三つ首塔』(昭和31年、比佐脚本)でも、千恵蔵が演じる金田一耕助は僧侶に変装し、大団円でパッと変装をかなぐり捨てて金田一の正体を現わしている。 クライマックスの銃撃戦のシーンは大映時代のシリーズ初期からしばしば批判の的になっていた。チャンバラで刀を振り回し続けるように拳銃をひたすら撃ち続ける描写に対して、途中で銃弾の装填(弾込め)の場面がないのは不自然だというものであった。そこでシリーズ後期では、できるだけ弾込めの場面を盛り込むように工夫された。『隼の魔王』では、銃撃戦の最後に装填する銃弾が尽きて主人公が「しまった」と洩らした直後に警官隊が到着して助かるという演出の工夫が見られた。また、敵の銃弾が発射されてから主人公が身をかわすのが不自然だという批判もあったが、これはあえてリアルでない描写をすることによって映画の面白さを引き出そうとする松田定次監督の演出術であった。 昭和35年(1960年)、東映7作目『七つの顔の男だぜ』をもって、片岡千恵蔵主演の多羅尾伴内シリーズは事実上終了した。シリーズ終了の理由は不詳である。周辺状況としては、東映も観客動員数1位の映画会社にのし上がって経営も順調に軌道に乗り、若手スターも台頭してきていた。また、東映創立以来約10年間、千恵蔵は重役兼トップスターとして年間10本以上の作品に出演してフル回転で働き通し、年齢的にも体力的にも限界に近かったと考えられる。これらにより、千恵蔵が第一線の主役から退く潮時であったと思われること、「荒唐無稽」という酷評を受けながらも伴内シリーズは興行的には成功したが、既に人気のピークは過ぎたこと、などが挙げられる。
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