東横映画へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:35 UTC 版)
再び浪人となった根岸は、旧知の黒川渉三に誘われて東急の五島慶太と接近。娯楽産業で人を呼び込み、ディベロッパーとしての土地に付加価値をつけるといった小林一三の戦略を学んでいた五島は、同時に労働集約型の映画産業が戦後に揺れると踏んでおり業界に広い人脈と信望を持つ根岸は役に立つと考えていた。 また根岸は敗戦前に帰ってきたもうひとつの目的「引揚者の受け皿作り」において五島という事業家は利用できると目算を立てていた。互いの利害が一致したこともあり根岸は日活多摩川時代からの相棒であるマキノ満男とともに、東横映画(太泉映画、東京映画配給と合併し東映となる)の製作部門に腰を据える。 当時の東横は東宝、松竹、大映と製作陣容も配給網も大きく離されていたが、根岸・マキノコンビは満映から引き上げてきた人間たちを東横に入社させて足場を固める。これがのちに太泉映画と合併して形成される東映の重要な基礎固めになった。 1947年(昭和22年)に満映の理事にいた事で公職追放をされて一線を退く。のち追放は解除されたが健康状態が悪く、そのまま自由が丘の自宅に隠棲した。1962年(昭和37年)4月、富士通川崎病院に入院。4月27日に死去。69歳没。
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