満映の理事に
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1938年(昭和13年)6月20日、日活を退職した直後の根岸は満州映画協会に理事として招かれ新京へ移住。その翌年の1939年(昭和14年)に関東大震災直後に大杉栄らを殺害した甘粕事件の張本人である甘粕正彦が満映の理事長に就任。元軍人の謀略家・甘粕と元作家志望のヒューマニスト・根岸の組み合わせは1945年(昭和20年)6月まで続く。 1940年に肺結核に犯されて根治の見込みがない事を知らされたのちも、根岸は運命を甘受して入退院を繰り返す。甘粕も根岸に対して真情のこもった書簡を送るなどしている。健康を心配した古野伊之助は、自分が社長をつとめる「社団法人日本映画社」(日映)の専務理事として根岸を招き、1945年6月に根岸は日本に戻る。この時、根岸の借金を察していた甘粕は満映の退職金規定に過分の上乗せをさせて厚情に報いている。
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