満映理事長とは? わかりやすく解説

満映理事長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:59 UTC 版)

甘粕正彦」の記事における「満映理事長」の解説

1939年昭和14年)、満州国国務院総務庁弘報処長武藤富男総務庁次長岸信介尽力満洲映画協会満映)の理事長となる。満映のある新京日本人社会では「遂に満映右翼軍国主義者牛耳られる」、「軍部独裁専横人事」と噂されたという。 岸信介甘粕報いるために理事長にしたのだという説や、当時満映は準国策会社として作る映画は固苦しく不人気で実は経営危機直面しており、甘粕甘粕事件の際の義捐金はじめとしてかなりの資産成した思われていたため、その資金による支援をあてにして寧ろ満映関係者の方から積極的に経営陣に入るよう求められたのだとする説がある。 甘粕満映経営立て直しのために大量従業員解雇行ったものの、その再就職先の確保には努力したとされる紳士的に振る舞い経営再建とともに満映日本人満人双方共に俳優・スタッフらの給料大幅に引き上げただけでなく、日本人満人待遇同等にしたことや、女優酒席同伴させることを禁止するなど、社員大切にしたことから満映内での評判高まっていった。甘粕また、文化人でもあり、ドイツ訪問時に当時最新映画技術満州持ち帰った。それは後に戦後東映黄金期を築くことにもなった。また、朝比奈隆指揮をしていたハルビン交響楽団充実にも力を尽くした。また甘粕本人軍官僚あがりであり芸術的才には恵まれておらず、映画製作芸術面において社員監督等に馬鹿にされることも多かったが、そうした無礼数々も「僕の範囲外なので」と笑って受け入れていた。 満州時代甘粕は"満州夜の帝王"とも呼ばれまた、日本政府意を受け満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし甘粕はその硬骨漢ぶりと言動故に関東軍には煙たがられ甘粕事件イメージもあり、士官学校恩師である東條英機という例外除いては、むしろ冷遇されており、その影響力はあくまで日本人官僚グループとの個人的な付き合いや、士官学校時代同期学友達との人脈源泉となっていたという(根岸寛一証言)。また、根岸証言によれば謀略資金源大半満映から出ていたという。

※この「満映理事長」の解説は、「甘粕正彦」の解説の一部です。
「満映理事長」を含む「甘粕正彦」の記事については、「甘粕正彦」の概要を参照ください。

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