演劇の世界へ
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1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。同年に長兄・弘の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積みを過した。下積み時代は馬の足などしか役が付かなく、日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。しかし、ロッパ一座では座長の古川から認められ、のちのちまで目をかけられた。この頃に盟友となる山茶花究と出会う。1937年にロッパ一座を退座。1938年に応召されるが、耳の大手術をした後だったため即日帰郷となった。 1939年、NHKのアナウンサー試験に合格。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している[要文献特定詳細情報]。3ヶ月の養成期間終了後、満州・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した。アナウンサー業務のほか満洲映画協会製作の映画のナレーション等も手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。同じ満洲電電に務めていた赤羽末吉(のちに絵本作家)とも親交を結ぶ。また、満州各地を回った時のルポルタージュは国定教科書(高等国語二)に採用された。さらに、満州巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生らとも親交を結び、新京の劇団に所属していた芦田伸介とも知り合った。アナウンサー時代に指導した後輩に糸居五郎がいる。 満州時代には、川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送を行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊(本土での「震天隊」に相当))の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。この年、徳島県海陽町の旅館で宿泊中に昭和南海地震に遭遇している。
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演劇の世界へ
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自伝によると、金太郎が俳優になったのは、ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにある日本劇場で芝居を見たのがきっかけだという。その芝居は藤田東洋が座長の日本人劇団の公演だったが、金太郎は内容があまりにも古臭いと感じたため、藤田に会って文句をつけ、もっと新しい芝居を自分にやらせてほしいと申し込んだ。そこで金太郎が提案したのは、台詞を暗誦できるほど愛読した『不如帰』の舞台化であり、それまで芝居の経験がないにもかかわらず、自身が主人公の川島武男を演じると意気込んだ。金太郎がその場で台詞を暗誦してみせると、藤田は感心して話に乗り、金太郎がロサンゼルスで手に入れた原作を脚色し、自身の主演で上演することになった。この公演は評判を呼び、自信をつけた金太郎は俳優になる決心がついた。 その後、金太郎は藤田の素人劇団の一員となり、日本で見た芝居を思い出しながら脚本を書いては主役を演じ、ロサンゼルスやサンフランシスコ、シアトルなどのアメリカ西海岸の都市にある日本人街を公演して回った。1911年には羅府文芸協会の設立者に名を連ね、文芸劇のためにイプセンやシェイクスピア、トルストイの作品を日本語に翻訳した。しかし、芝居だけで十分に生活することはできず、氷運びなどの仕事をして生活費を稼ぎ、寝る間を惜しんで芝居の稽古や脚本の勉強をした。自伝で「この時は舞台にたっても早川という名前ではなくて、ほかの名前を使ってやっていた」と述べているが、中川織江によると、金太郎は素人劇団で在原狂夫(ありはらたけお)という芸名を名乗っていたという。この芸名は在原業平から「在原」をとり、『不如帰』の主人公の武男に音をそろえて「狂夫」にしたと考えられている。 やがて金太郎は日系人向けに芝居を打っているだけでは飽き足らず、アメリカ人相手に芝居をやろうと考え、メルヒオール・レンジェルの戯曲『タイフーン』の上演を企画した。この作品はパリで暗躍する日本人スパイのニトベ・トコラモが良心の呵責で破滅するまでを描く悲劇で、ヨーロッパやアメリカで上演されて高い成功を収めていたが、それらの舞台では白人が日本人を演じていたため、金太郎は本物の日本人が演じることで他との差別化を図ろうとした。金太郎は自らプロデューサーとなり、資金集めやキャスティングも自分で行い、1913年に開幕すると大きな成功を収めた。中川によると、金太郎が早川雪洲という芸名を名乗るようになったのは、『タイフーン』の公演からだったという。自伝によると、金太郎は西郷南洲(西郷隆盛)を尊敬していたことから、はじめはそれに因んで「北洲」という芸名を名乗っていたが、そのうち同名の人物がほかにいることが分かったため、北には雪が積もっていることから「雪洲」を名乗ったといい、室町時代の禅僧の雪舟とは関係はないとしている。
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