演劇の道へ
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1925年に築地小劇場を見学して感銘を受けたことで成城高等学校時代から舞台俳優を志す。1930年に同劇団の『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』にエキストラ出演する。 1931年、慶応仏文の金杉惇郎、フランス帰りの長岡輝子を中心に都会派のモダンな学生劇団「テアトル・コメディ」が結成され、成城高校の有島行光(森雅之)も参加。第1回公演から芸名の森雅之を名乗り始め、『芝居は誂向き』などの演技で将来を嘱望されるが、この頃胸部のカリエスに罹り4年間ほど闘病生活を送った。 病気治癒後の1937年、岩田豊雄らの文学座の結成に加わり、本格的に役者で身を立てる決心をする。コメディや恋愛劇の洗練された演技で注目を浴び、1940年に杉村春子、三津田健と文学座の常任委員に就く。1943年には杉村と夫婦役を演じた『田園』がロングランとなり、翌1944年には北里柴三郎を演じた『怒濤』の老け役で絶賛された。戦前の舞台演劇の世界で確固とした地位を築いたが、同年に文学座を退座。
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