演劇への傾倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:47 UTC 版)
「ライマン・フランク・ボーム」の記事における「演劇への傾倒」の解説
同時に、ボームは演劇にも傾倒し、興行的な失敗によって幾度となく破産寸前に陥った。ボームの最初の失敗は、地方の演劇会社が彼に役を与える空約束の元に衣装類を詐取したことである。業界に幻滅したボームは(一時的に)演劇から離れ、義理の兄弟がシラキュースで経営する衣料品会社で事務員となった。ある時、彼は別の事務員が密室で自殺しているのに遭遇した。この事件は彼が後に文学誌"The White Elephant"に寄稿した密室ものの小説"The Suicide of Kiaros"に反映されている。 ボームが舞台から離れていることに耐え切れたのは、そう長い期間ではなかった。彼は再び役者の仕事に戻り、ルイス・F・ボーム(Louis F. Baum)やジョージ・ブルックス(George Brooks)の芸名で活動した。 1880年、父が彼のためにリッチバーグ(Richburg)に劇場を建ててくれた。ボームは脚本家の地位に就き、役者をやってくれる仲間を集めた。ウィリアム・ブラックの小説"A Princess of Thule"(テューレの王女)をベースにした歌付きのメロドラマ、"The Maid of Arran"(アランの乙女)はある程度の成功を見た。ボームは脚本を書くだけではなく、劇のための作曲を行ない(彼の劇は物語に歌が付属した、ミュージカルの走りというべき物であった)、さらには舞台で主役を演じた。おばのキャサリン・グレイ(Katharine Gray)がボームの役のおばの役を演じることもあった。彼女はシラキュース雄弁術学校の創立者であり、ボームはおばの学校に対して演劇、脚本、演出、翻訳(フランス語、ドイツ語、イタリア語)、校閲、オペレッタの技術を無償で提供した。1882年11月9日、ボームは婦人参政権論者として著名なマティルダ・ジョスリン・ゲイジ(Matilda Joslyn Gage)の娘モード・ゲイジ(Maud Gage)と結婚した。ボームが「アランの乙女」の巡業で留守にしている間、別の劇をやっていたリッチバーグの劇場が火事になり、建物のみならずボームの脚本の多くも焼失した。
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