シェイクスピアとの結婚
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「アン・ハサウェイ (シェイクスピアの妻)」の記事における「シェイクスピアとの結婚」の解説
ハサウェイとシェイクスピアは1582年11月に結婚した。このときハサウェイは身ごもっており、結婚から6カ月後に最初の子供が生まれている。結婚当時のシェイクスピアはわずか18歳で、ハサウェイは8歳年長の26歳だった。このことから2人の結婚はいわゆる「できちゃった結婚」であり、シェイクスピアがハサウェイの家族から婚前交渉の責任をとらされたのではないかとする研究者もいる。ウスターの教会が発行した、ラテン語で書かれた結婚許可証の教会記録が現存している。この結婚許可証には「Wm・シェイクスピア (Wm Shaxpere)」とテンプル・グラフトン在住の「アン・ウェイトリー (Annam Whateley)」の名前が記載されていた。しかしながら、結婚許可証が発行された翌日には、ハサウェイ家の友人だったフルク・サンデルスとジョン・リチャードソンが、「ウィリアム・シェイクスピア (William Shagspere)」と「アン・ハサウェイ (Anne Hathwey)」の結婚保証金40ポンドの証書に保証人として署名している。 アイルランド人文筆家フランク・ハリスはその著書『人間シェイクスピア (The Man Shakespeare)』(1909年)で、これらの記録はシェイクスピアが2人の女性と同時に付き合っていた証拠であり、シェイクスピアはアン・ウェイトリー (en:Anne Whateley) と結婚しようとしたが、このことを知ったハサウェイ家が、妊娠していたアン・ハサウェイとの結婚を即座にシェイクスピアに強制したのだとしている。ハリスは、シェイクスピアがハサウェイに罠にかけられて結婚したようなもので「シェイクスピアの妻に対する激しい嫌悪感は測り知れないほどだった」と確信しており、このことがシェイクスピアをしてストラトフォードを離れる決意をさせ、演劇の世界への没頭に拍車をかけた原因だったと主張した。しかしながら、シェイクスピア研究の著名な専門家スタンリー・ウェルズ (en:Stanley Wells) は著書『Oxford Companion to Shakespeare』で、現代ではほとんどの研究者がウェイトリーという名前は結婚許可証を書いた「書記の単なる書き間違い」だと考えているとしている。 オーストラリア人作家ジャーメイン・グリアは、シェイクスピアとハサウェイの年齢差はシェイクスピアが望まぬ結婚を強いられた証拠ではなく、シェイクスピアがハサウェイとの結婚を望んでいたことを意味するとして次のような説を唱えている。ハサウェイのように親を亡くした子供は、年長者が弟妹たちの面倒を見るために家庭に残ることが多く、結婚するのも20歳代後半になりがちだった。当時のシェイクスピア家の財政状態は破たんしており、シェイクスピアは結婚相手としては魅力的とは言えなかった。その一方でハサウェイ家は社会的にも経済的にも安定しており、ハサウェイは結婚相手として申し分ない女性だった。さらに当時のイングランドでは、婚前交渉や同棲、そして妊娠は、正式に結婚するまえによく見られることだった。ストラトフォード=アポン=エイヴォンや近隣の村に残る1580年代の記録の調査から、グリアは2つの事実が2人の結婚を考えるうえで重要であると主張した。当時の多くの女性が結婚時に妊娠していたことと、2人の結婚が春ではなく秋であり、秋はもっとも多く結婚式が挙げられていた季節であったことの2点である。ハサウェイとの結婚を強く望んでいたシェイクスピアはハサウェイを妊娠させたが、必ずしもこのことだけがシェイクスピアが結婚を決意した理由ではない。ハサウェイ家とシェイクスピア家の間には、家族ぐるみの交流があったのではないかとグリアは考えている。 ハサウェイとシェイクスピアの間には3人の子供が生まれた。1583年生まれのスザンナ、1585年に生まれた双子の兄妹ハムネット (en:Hamnet Shakespeare) とジュディス (en:Judith Quiney) である。長男のハムネットは、おそらく腺ペストで11歳で死去し、1596年8月11日にストラトフォード=アポン=エイヴォンで埋葬された。研究者の中には、ハムネットとシェイクスピアの戯曲ハムレットとの関連性を指摘する者もいる。 結婚と出産以外でハサウェイの生涯に言及している記録は、父リチャードが雇っていた羊飼いで1601年に死去したトマス・ウィッティングトンが残した遺言書だけである。ウィッティングトンの遺言書には「ストラトフォードの貧しき者」に対して40シリングを残すとされており、さらに続けてこの金は「ウィリアム・シェイクスピアの妻であるアン・シェイクスピアが所持している。これは当然私に返却されるべき金であり、前述のウィリアム・シェイクスピアあるいはその譲受人が私の遺言執行人に支払わなければならない。これが私の真の遺志である」と記されていた。この遺言の解釈は研究者によって意見が分かれている。ウィッティングトンがハサウェイに金銭を貸していたという説では、おそらくはシェイクスピアが不在だったときにハサウェイが手元不如意になったのではないかとする。しかしながらより有力な説として「未払いだった賃金か、貯金として預かっていた金」だろうとするものがある。これはウィッティングトンの遺言書に、ハサウェイの弟に対しても同額の金銭を要求した文章が記されていることによる。 1607年6月に長女スザンナが地元の医師ジョン・ホールと結婚し、翌1608年にハサウェイとシェイクスピアの孫娘となるエリザベス (en:Elizabeth Barnard) が生まれた。1616年には次女ジュディスが、良家出身のワイン醸造家で酒場も経営していたトマス・クワイニー (en:Thomas Quiney) と結婚している。結婚当時ジュディスは32歳でクワイニーは27歳だった。しかしながらクワイニーが別の女性を妊娠させたことが発覚したことから、シェイクスピアは2人の結婚に不賛成だったと考えられている。さらにクワイニーは、四旬節に結婚式を挙げるのに必要となる特別な結婚許可証の取得に失敗しており、ジュディスとクワイニーが3月12日に教会から除名される原因をつくってしまった。これから間もない3月25日に、シェイクスピアは遺言書の内容を、ジュディスにのみ300ポンドの遺産相続を認め、クワイニーの名前を遺言書から消去したうえで、遺産の大部分をスザンナとその夫に贈ると書き換えている。 シェイクスピアが徐々にハサウェイを嫌うようになっていったのではないかとする説が唱えられることがあるが、この推測を裏付ける記録や書簡は一切存在しない。2人の結婚生活において、シェイクスピアが戯曲の執筆や出演のためにロンドンで大半の時間を過ごし、その間ハサウェイはストラトフォードに残って家庭を守っていたことは事実である。しかしながらジョン・オーブリー(1626年 - 1697年)は、シェイクスピアは毎年ストラトフォードに戻って一定の期間を過ごしていたと書き残している。そして1613年に劇場の仕事を引退したシェイクスピアは、住み慣れたロンドンではなくストラトフォードに戻ってハサウェイと暮らすことを選んだ。
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