演劇との縁
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横浜雙葉小学校1年時の学芸会で「はじめての言葉」という前説を任されたことがきっかけで演劇に興味を持ち始めると、実母や自身を「はじめての言葉」へ抜擢した恩師の勧めで、横浜雙葉学園中等部の1年時から高等部の2年時まで校内の演劇部で活動。小学校の5年時に芸能事務所からのスカウトを受けたほか、高等部の1年時に校外での演技レッスンへ1年ほど参加するなど、一時は舞台俳優を本格的に志していた。実母の同僚にオペラ歌手がいた縁で、5歳の頃には、この歌手に勧められて『蝶々夫人』(石川県立能楽堂で上演されたオペラ)でドローレ(蝶々夫人の子)役を演じていたという。もっとも、横浜雙葉学園は在校生の芸能活動を一切禁じているため、在学中は「高等部から大学へ入るまでは(舞台俳優への道に進むことを)我慢する」との姿勢を貫きながら、校内の演劇部で作品の演出を主に手掛けていた。横浜雙葉学園の演劇部では在校生以外の指導者を招かず、最高学年(高等部2年)の部員が中等部へ在学する部員まで自主的に指導する体制で運営しているため、週2 - 3回ペースの活動ながら部員間の上下関係が非常に厳しいとされる。自身も「在籍中は(野田・蜷川の演出による作品や演劇集団キャラメルボックスの舞台公演を学生向けの料金でよく鑑賞していた影響で)『演出はこうあるべきだ』と考えるあまり、後輩の部員に厳しく接していた」とのことで、高等部1年時の2009年に(例年は演劇部が参加している)全国高等学校総合文化祭の地方予選が2009年新型インフルエンザ感染拡大の影響で開かれなかったこともあって、TBSテレビへの入社後に臨んだ『高校演劇ZINE』向けのインタビュー(詳細後述)では「演劇部に在籍していた時期は(性格や境遇の面で)暗黒時代」と表現している。 上記の経緯から、高等部の卒業を前に、演劇へ本格的に取り組める大学を受験。青山学院大学への入学直後には、演劇部での活動を検討していたほか、小学生時代にスカウトを受けていた芸能事務所の門を再び叩いた。しかし、「大学の演劇部で活動するには、(観客のことを気にしなくても自己満足で演じていられた)高校演劇時代の意識を(観客のことを常に考える)『大人の演劇』向けに変えることを覚悟しなければいけない。自分はそのような『大人の演劇』の世界へ呼ばれておらず、演劇サークルへ入ったとしても演劇部ほど演技へ真摯に向き合えそうもないので、(『自分が演技や運営に携われる』という意味での)高校演劇はもう終わった」と実感した末に、「(演劇と並行しながら関心を向けていた)英語でのスピーチでも舞台でスポットライトを浴びられる」との理由でESSへ入ることを決めたという。 TBSテレビへ入社してからも、『アトロク』の水曜日で入社4年目(2019年)の夏に「高校演劇特集」が初めて放送されるまでは、演劇への関心や前述した経験をあえて公にしなかった。本人曰く「『(自分には入るほどの踏ん切りが付かなかった大人の)演劇で活動している方々に申し訳ない』との思いをひきずっている」ことによるもので、『アトロク』へのレギュラー出演を始めた頃には、「(生放送で積極的に話せることを)何も持ち合わせていない(と思い込んでいる)自分が、(番組全体のテーマである『カルチャー』への関わりが深い宇多丸やゲストと同じ)スタジオへ居ていいのだろうか?」と繰り返し自問していたという。「高校演劇特集」の放送が始まってからは、「『自分には演劇(を語る資格)があるじゃないか』と思えるようになった」とのことで、『高校演劇ZINE』向けのインタビューでは「(青山学院大学への進学後に)アナウンススクールへ一切通わないまま受けた(同局などの)アナウンサー採用試験では、高校演劇で身に付けたこと(発声の方法やストーリーを体現できそうな衣装の選び方など)や即興演劇の経験が大いに役立った」とも語っている。
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