舞台俳優へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 20:48 UTC 版)
4人兄弟の末っ子として生まれた。1943年(昭和18年)に旧制私立駒込中学校(駒込高等学校)を卒業して、三田の電話局に勤務した。1945年(昭和20年)に通信兵として召集される。戦後は大手町の電話局で、進駐軍を担当した。 帝国劇場で研究生募集のチラシを見たのがきっかけとなり(「23歳の頃に観たトルストイの舞台劇『復活』に感銘を受けたことがきっかけ」とも言われている)、1948年(昭和23年)に東京民衆芸術劇場附属俳優養成所に1期生で入所後、1949年(昭和24年)に『風の吹く一幕』で初舞台を踏む。しかし同劇団の創設者である宇野重吉から、大滝の甲高く、かすれた独特の声を指して「おまえの声は壊れたハーモニカのようだから、演劇には向かないと思う」と評され、演出部へ移った。 1950年(昭和25年)の民藝創設に参加し、旗揚げ公演のチェーホフの『かもめ』に出演する。1952年(昭和27年)には『冒した者』の代役に起用されたことがきっかけで俳優に転じ、正式に劇団員となったが長年裏方ばかりの不遇時代が続く。 1970年(昭和45年)の舞台『審判』で初主演に抜擢され、作品のテーマである東京裁判に関する文献を買い込み必死に勉強した。この演技で第5回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。時に45歳での受賞であった。これが転機となり、以来民藝の看板俳優のひとりとして数多くの舞台に出演した。『巨匠』『浅草物語』『らくだ』などが舞台の代表作であり、演劇賞も多く受賞している(下述)。2011年(平成23年)には多年に亘る演劇活動に対する功績を評価され、文化功労者に推挙された。
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