ハリウッドとの決別
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1920年代に入ると、アメリカでは第一次世界大戦後のナショナリズムの高揚の中、反日ムードがますます濃くなっていた。ロサンゼルスの街でも排日を呼びかける宣伝カーが走り、それは雪洲の自宅の前にもやってきた。そんなアメリカで雪洲の人気は徐々に低下し、スターの地位を維持することが困難となっていった。さらに雪洲の成功を面白くないと思う白人も少なからずおり、雪洲の身辺は次第に不穏なものになり、そんな雰囲気は撮影現場でも漂っていた。そのような背景の中で、雪洲は最も脂の乗りきっている時期を過ごしていたにもかかわらず、ハリウッドに対する不信や不安、そして身の危険を感じるようになった。 そんな雪洲が直面したのは、自社の作品を配給していたロバートソン・コール社との関係悪化だった。1921年3月、ロバートソン・コール社は映画製作に乗り出し、雪洲の会社と合併することを持ちかけ、『スワンプ(英語版)』(1921年)を撮影していた雪洲はこの話に応じた。雪洲には100万ドルもの死亡保険がかけられており、もし雪洲が死んだ場合、保険金は雪洲の会社に入る仕組みとなっていたが、ロバートソン・コール社は合併により保険金は自動的に自分たちに譲られると解釈し、受取人の名義を自分たちに変えるよう要求した。雪洲は強くこれに反発したが、それで揉めている最中に虫垂炎をこじらせた。症状がかなり悪化していたにもかかわらず、ロバートソン・コール社は雪洲の保険金目当てで手術を先延ばしにしたため、あとでその事実を知った雪洲は憤慨した。何日経っても手術が行われず、4月8日に検査をすると一刻を争う危険な状況であることが判明し、緊急手術をしたが、腸壁が丈夫で腹膜まで膿が回らなかったため一命をとりとめた。 5月12日に雪洲は退院し、6月から転地療養と称してアメリカ東部を旅行した。6月25日にはニューヨーク・ヤンキース対ワシントン・セネタースの野球試合で始球式を務め、ベーブ・ルースと握手を交わし、その2日後にはホワイトハウスでウォレン・ハーディング大統領と面会した。雪洲が長兄に宛てた書簡によると、この東部旅行は「新しい境地を自分の活動天地に求めよう」という目的があったという。大場俊雄は、東部旅行がやがてハリウッドを離れることになる雪洲の転機の前兆であり、映画俳優から舞台俳優へ活躍の場を広げることを意図した下見旅行だったと指摘している。 1922年、雪洲は合併後の新生ロバートソン・コール社のもとで、中国が舞台の新作『朱色の画筆(英語版)』(1922年)の撮影に入った。すでに保険金の受取人の名義はロバートソン・コール社に移されていたが、この作品では大地震で町が壊滅する大がかりなシーンがあり、同社は撮影中に事故が起きる可能性もあるとして、雪洲の死亡保険にさらに100万ドルを追加した。大地震のシーンは、3月11日のクランクアップ当日に撮影されたが、自伝によると、雪洲は撮影現場の見物人が異常に多く、その中に白衣を着た人も何人かいたため、いつもと様子がおかしいことに気付いたという。撮影するシーンは、雪洲と中国人がパゴダの前で格闘し、その最中に発射されるピストルの音とともに、地震でパゴタが向こう側へ倒壊するというものだった。ところが、雪洲は撮影開始直前、知人の美術監督に「パゴダのセットは向こう側にではなく、雪洲の方に倒れる」と忠告された。雪洲は恐怖心を抑えながら撮影に臨んだが、合図となるピストルの音がした途端、パゴダのセットは本当に雪洲の方へと倒れ始めた。雪洲はすぐに「走れ!」と声を張り上げ、他の俳優たちと大急ぎで逃げ出し、そのおかげで怪我人は出なかったという。 雪洲は自伝で、このセットの倒壊事故は、雪洲の多額の保険金を手にするためにロバートソン・コール社の社長が仕組んだものであると主張し、「あのときは日本人排斥が盛んなときで、実に迫害を受けた。そのどさくさまぎれに日本人の私など撮影中の事故死ということで、殺したって平気だろう、殺して200万ドルとる、という謀略をめぐらしていたのが事実だ」と述べている。中川も、この事件が「会社ぐるみの確信犯的な公開殺人計画」だったと述べている。この事件で雪洲はハリウッドと決別することを決意し、事件から1週間後の3月17日に行われたロバートソン・コール社社長主催のパーティーの席上で、その決意を発表した。 先日、一般人民投票によって、日本人を排斥すべきかどうか、土地法、移民法を通過さすべきかどうか、イエス、ノーの投票があった。あのとき、「イエスと投票しろ」と宣伝カーを繰り出した、そのなかに僕のいる映画会社からも車が出ていたのを、僕はよく知っているし、現に見た。そして僕の住んでいるこのハリウッドがイエスの投票をしたために、あるいはロスアンゼルス全部がイエスの投票をしたために、日本人にとってもっとも致命的な土地法案は通過してしまった。(中略)道を歩く日本人はトマトをぶつけられたりで悲しいめに会った。それのみならず、撮影中に僕を殺そうとした事件が起きた。こういう空気の中で、僕はこれ以上一日も過ごすことはできない。きょう限りハリウッドに訣別する。(中略)いろいろお世話になったが、今日をかぎりお別れする。 この言葉通りに雪洲は自身の映画会社を解散し、ハリウッドを後にした。それから約2か月後の6月29日には、妻と渡米後初めて日本へ一時帰国した。この頃の日本では、雪洲はハリウッドで成功したスターとして大きな注目を集め、映画ファンだけでなく一般大衆からも英雄視された。雪洲は至るところで熱狂的な歓迎を受け、東京駅では雪洲夫妻をひと目見ようと大群衆が押し寄せたという。その一方で「国賊」「売国奴」のレッテルが拭い去られたわけではなく、歓迎と同じくらいに不歓迎の声も多く、雪洲夫妻は不歓迎団体や抹殺社を称する団体に付きまとわれ、常に不安と恐怖がついて回った。横浜港に到着した時には歓迎の嵐と反対の怒号が入り混じる騒ぎとなり、帰国直後の歓迎会の最中には撲殺団のメンバーが「雪洲国賊!」と叫びながら乱入する出来事も起きた。雪洲は郷里の七浦村にも戻り、地元の人々から大歓迎を受けたが、日本を離れる間際の8月16日に兄の音治郎が亡くなり、滞在期間を延ばして葬儀に参列したあと、8月28日に喪服姿のままアメリカへ戻った。
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