ハリウッドに復帰
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1945年に第二次世界大戦が終結し、雪洲は何本かのフランス映画に出演する機会を得たが、それだけでは生活することができず、紙や絹のハンカチに描いた絵を売って食いつないでいた。日本へ帰国しようにも、毎日のように警察に出頭して、釈放された日本人の証言をしなければならなかったため、当局からの許可は下りず、そのうえ日本が敵国であるため手紙を出すこともできなかったという。雪洲の家族を含む日本やハリウッドの人たちは誰も雪洲の消息を知らず、鶴子は夫の行方を探すために努力し、アメリカ軍機関紙『星条旗新聞』の記者に頼んで「パリのセッシュウの行方を捜している」という記事を掲載してもらった。 1948年、雪洲はアメリカの人気スターのハンフリー・ボガートから「映画で共演してほしい」というオファーを電報で受けた。ボガートは自らのプロダクションで製作する新作『東京ジョー(英語版)』(1949年)に、若い頃から憧れた雪洲を出演させたいと望んだが、肝心の雪洲の居所が分からず、配給元のコロンビア ピクチャーズが日本に連絡しても消息はつかめなかったため、「雪洲を見つけたら賞金を出す」という新聞広告を出したところ、パリから雪洲の絵の個展が開かれていたという情報が入ってきたという。『東京ジョー』で雪洲が演じる役柄は、サイレント時代から演じ続けてきた悪役の日本人だったが、雪洲にとってはハリウッドに復帰できるチャンスであったため、このオファーを引き受けた。 連合国の占領下にある当時の日本は、まだ講和条約が締結されておらず、公式には依然として連合国の交戦国となっていたため、政府要人でもない日本人が自由に国を移動することはできず、当然フランス在住の日本人にアメリカ行きの査証は下りなかった。そんな時代にもかかわらず、1948年末に雪洲はパリのアメリカ大使館から特別査証を発給され、特例的に渡米することができた。自伝によると、雪洲はアメリカ大使館へ査証を貰いに行ったところ、担当者に「日本とアメリカは交戦国だから、雪洲の持っている旅券は認められない」と言われたが、大使館はフランス滞在中の雪洲の行動などを綿密に調査していて、その結果何ら悪いところがなかったため、その後アメリカ行きの査証を出してくれたという。鳥海は、雪洲のアメリカ行きが認められた理由として、占領下のパリでドイツ軍に協力しなかったことと、雪洲がハリウッドで築き上げた実績が認められたことを挙げている。 1948年12月31日、雪洲はパリを発ち、年明けの1949年元日にニューヨークに到着した。16年ぶりにアメリカの地を踏んだ雪洲は、日本が3年前までアメリカの交戦国だった事情で、反日感情や人種差別から石でもぶつけられることを覚悟していたが、多くのアメリカ人や映画関係者からは歓迎を受け、『ニューヨーク・タイムズ』も雪洲のハリウッド復帰を大々的に報じた。『東京ジョー』の撮影中、ボガートは常に雪洲のために気を遣い、演技には決してケチをつけず、雪洲のブランクを忘れさせるように元気づけた。雪洲は自伝で「大へん愉快に仕事をすることができた」と述べている。雪洲は続いて、20世紀フォックス作品『三人帰る(英語版)』(1949年)でクローデット・コルベールと共演し、日本軍の捕虜収容所所長の陸軍大佐を演じた。この演技は高い評価を受け、戦後の代表作『戦場にかける橋』の収容所長役へとつながる役柄となった。
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