舞台俳優からテレビ俳優へ
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「斎藤邦唯」の記事における「舞台俳優からテレビ俳優へ」の解説
1929年(昭和4年)11月17日、東京府(現在の東京都)に生まれる。本名は同じ。 第二次世界大戦初期の1942年(昭和17年)4月に旧制中学校に入学、戦後の1947年(昭和22年)3月に卒業した。文学座が巣鴨に附属演劇研究所を開校した1949年(昭和24年)、同劇団に入団する。同年に入団した俳優に高木均、同じく文芸部員には矢代静一がいた。その後、同団を退団して島田正吾・辰巳柳太郎の新国劇に移籍、次いで、演劇畑を歩んできたが、竹井諒(1901年 - 1970年)が1949年に設立した綜芸プロダクションに移り、映画界に転向した。当時の同プロダクションの作品は、嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』を中心とした時代劇・剣戟映画が中心であった。その後、1954年(昭和29年)に製作を再開した日活に入社する。この時代の出演作についての資料は残っていない。 1957年(昭和32年)には、日本テレビ放送網が16mmフィルムとVTRを駆使して製作し、日本で初の刑事ドラマとされる『ダイヤル110番』に出演した。次いで同年10月7日に放送を開始した朝丘雪路の主演作『すいれん夫人とバラ娘』に出演、同作は、渥美清のテレビデビュー作として知られる。『テレビ大鑑 1958』によれば、同書が発行された1958年(昭和33年)6月20日時点では、衣笠プロダクションに所属しており、東京都北多摩郡国立町(現在の国立市)に住んでいた旨の記述がある。当時の民間テレビ局は、16mmフィルムを媒体として製作するテレビ映画に力を注いでおり、斎藤は、中部日本放送(現在のCBCテレビ)が主体となって中央映画貿易とともに製作、1959年(昭和34年)5月17日に放映を開始したテレビ映画『警視庁鑑識科学シリーズ 決め手』に助演した。同作の監督の都成潔は東宝から、テレビ映画の宣弘社プロダクションと渡り歩いた人物であり、斎藤はさらにフィルムの世界に進んでいった。 折込広告社(現在のオリコム)が製作し、前年4月1日に放映を開始した連続テレビ映画『まぼろし探偵』が人気を博したため、映画化が決まり、三東映画が製作し、新東宝が配給、1960年(昭和35年)2月14日に公開された劇場用映画『まぼろし探偵 地底人襲来』に「橋本」役で出演した。同作は、テレビ版に引き続き吉永小百合が出演していることでも知られる。同年7月5日からは、連続テレビ映画『アラーの使者』が放映を開始、同作に「宇野刑事」役で出演した。同作には、のちに斎藤が製作した渡辺護の監督作『情夫と牝』(1965年10月公開)、『浅草の踊子 濡れた素肌』(1966年1月公開)、『うまず女』(1966年3月22日公開)、『絶品の女』(1966年7月12日公開)に出演した武藤周作が「紅とかげ団四号」役で出演している。「紅とかげ団一号」役を演じた福島亨は、のちにメトロ芸能社映画部で『女のふくらみ』(監督鶴巻次郎、主演桂奈美、1966年7月公開)を製作した。その後、斎藤は、映画の製作スタッフに転向した。
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