映画界に転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 16:29 UTC 版)
結局、歌舞伎を断念する道を選んだ錦之助は、1953年11月15日歌舞伎座子供かぶき教室『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として、1954年2月に映画界に転向する。錦之助と弟の賀津雄(嘉葎雄)が東映入りすると、三兄の初代中村獅童も梨園を去って、弟たちを東映のプロデューサーとして支えた。波紋を呼んだ錦之助の映画への転身だったが、この当時にすでにスターだった美空ひばり側の勧誘だったことも事態に負の要素となったといわれる。その証左に、錦之助が映画で名を成してから父を数本の映画に出演させたが、その際に父は特に歌舞伎をやめる必要はなかったことが挙げられる。 美空ひばりとの共演作(新芸術プロ作品『ひよどり草紙』)で映画デビューの後、新東宝を経て東映に移籍。甘いマスクで注目されたこともあり同社製作の映画『笛吹童子』、『紅孔雀』に出演し、立て続けの大ヒットにより一躍スターとなり全国で「錦ちゃん」ブームが巻き起こった。以降は大川橋蔵や市川雷蔵、東千代之介らと共に「二スケ二ゾウ」と呼ばれる東映時代劇映画の看板スターとなり、日本映画界の全盛期を支えた。『一心太助』シリーズ、『宮本武蔵』シリーズは当たり役となり、特に武蔵役はライフワークとなった。
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