映画界に入るまでとは? わかりやすく解説

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映画界に入るまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:20 UTC 版)

新藤兼人」の記事における「映画界に入るまで」の解説

1912年明治45年)、広島県佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区五日市町石内生まれ。4人兄弟末っ子広島市内から一山越えた農村豪農の家に生まれるが、父が借金連帯保証人になったことで没落した田畑売り、たったひとつ残った父母と3人で暮らし石内尋常高等小学校(現広島市立石内小学校)へ通う。当時長兄尾道警察署勤務姉2人は家が没落したため長姉花嫁移民として渡米し次姉広島看護師になった。なお生家であるその1999年まで新藤生家として保存されていたが取り壊され当地には「生誕の地」碑が建っている。1927年昭和2年石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられた。この時代のことは『石内尋常高等小学校 花は散れども』に描かれている 16歳時に尾道長兄宅に居候することになる。この兄の家は東土堂町にあり、隣が大林宣彦実家であった。何もすることがなかったが兄に気を遣って家に居づらかったため毎日尾道の町でぶらぶら過ごしていた。1933年昭和8年)、徴兵検査終わった頃、たまたま見た山中貞雄映画盤嶽の一生』に感激し映画志し京都へ行くことを決める。 すごい映画出合った尾道の“玉栄館”という映画館見た山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方考えさせる知恵働いた映画だった。「これだっ」と思った、突然ね、映画をやろうと思った。 — 新藤兼人中国新聞1990年特集「私の道」 交通費貯めるため、兄の紹介自転車卸「山口バイシクル商会」に勤めた。なおこの商会高橋源一郎実家である。大林宣彦によると、新藤大林尾道実家持ち家住んでいたことがあり、幼少期大林新藤映画を観たことがあるという。ただ大林5、6歳の頃つまり1942年・1943年頃と証言しており、この時期ではない可能性が高い。 兄の紹介京都府警察刑事伝手頼りに、京都へ出る。ただすぐには撮影所には入ることが出来ず絶望し一度尾道帰るが、諦めきれずに再び京都へ戻る。

※この「映画界に入るまで」の解説は、「新藤兼人」の解説の一部です。
「映画界に入るまで」を含む「新藤兼人」の記事については、「新藤兼人」の概要を参照ください。

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