映画界の女王と人気の低下
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「ジョーン・クロフォード」の記事における「映画界の女王と人気の低下」の解説
1930年に公開された初期のトーキー映画『モンタナの月』で、ジョニー・マック・ブラウン (Johnny Mack Brown) の相手役を演じたクロフォードは大成功を収め、新たなトーキー映画の時代でもスター女優であることを証明した。続いてロバート・モンゴメリーと競演した『デパートの横顔 (Our Blushing Brides)』も大ヒットしている。これらの映画は、サイレント映画時代にクロフォードの代名詞となっていたフラッパー女優としてではなく、クロフォードをより洗練された女優として売り出そうとするMGMの意向で製作されたものだった。 クロフォードは1931年の『蜃気楼の女』で、クラーク・ゲーブルの相手役をつとめた。撮影中にクロフォードとゲーブルは関係を持つようになったが、製作総責任者のルイス・B・メイヤーがゲーブルに最後通告を突きつけたために二人の関係は終わっている。この『蜃気楼の女』は公開と同時に大ヒットした。 『蜃気楼の女』に引き続いて、クロフォードは『グランド・ホテル』(1932年)に出演した。この作品は世界初のオールスター・キャストの映画作品として知られており、出演者は当時のMGMの看板スターだったグレタ・ガルボ、ジョン・バリモア、ウォーレス・ビアリーといった俳優陣だった。『グランド・ホテル』は1932年度のMGMでもっとも興行成績を揚げた作品であり、第5回アカデミー作品賞を受賞している。この年に『モーション・ピクチャー・ヘラルド誌』が実施した「もっとも興行成績をあげられるスター」の投票企画で、クロフォードはマリー・ドレスラー、ジャネット・ゲイナーに続く3位となっている。ドレスラーは1931年に、ゲイナーは1928年に、それぞれアカデミー主演女優賞を獲得していた女優だった。 クロフォードは続く『令嬢殺人事件』(1932年)でも成功を収めた。しかしながら公開後間もなくして、この映画のあらすじが他の作品からの盗作ではないかという声が上がり、MGMは『令嬢殺人事件』の公開中止を余儀なくされた。この『令嬢殺人事件』はTV放映されたことがなく、ビデオ作品としてもリリースされていないために、クロフォードの幻の作品となっている。『令嬢殺人事件』でクロフォードが演じたレティ・リントンが着用した、衣装担当のエイドリアン (Adrian) のデザインによるドレスは「レティ・リントン・ドレス」と呼ばれて大きな注目を集めた。肩に大きなフリルのついた白いコットンオーガンジーのこのドレスを、ニューヨークの百貨店メイシーズがレプリカとして1932年に販売し、アメリカ全土で500,000着以上売れている。次作の『雨』(1932年)はジョン・コルトン (John Colton) が脚本を担当した映画である。サマセット・モームの短編小説を原作とする『雨』は、過去に何度か舞台化、映画化された作品だった。クロフォードが演じた、したたかだが傷つきやすい娼婦サディ・トンプソン役は、舞台でジーン・イーグルス (Jeanne Eagels)、サイレント映画でグロリア・スワンソンらが過去に演じている。しかしながらクロフォードのサディ・トンプソン役は評判がよくなく、作品の興行的にも失敗作となっている。 1933年5月に、クロフォードはフェアバンクス・ジュニアと離婚した。クロフォードは「心にこの上ない大きな傷を負った」とし、フェアバンクス・ジュニアがクロフォードの友人たちに対して「嫉妬と猜疑の目を向け」「とるに足らない些細なことで、私を一晩中大声で責め立てた」と主張している。フェアバンクス・ジュニアと離婚したクロフォードは『ダンシング・レディ』(1933年)で再びクラーク・ゲーブルと共演した。まだ映画界では無名だったころのフレッド・アステアも出演しているこの作品の出演者の中で、クロフォードはもっとも出演料が高額な俳優だった。次作『蛍の光 (Sadie McKee)』ではジーン・レイモンド (Gene Raymond)、フランチョット・トーンと共演している。この年のクロフォードとクラーク・ゲーブルとの共演はこの後も続き、『私のダイナ』(1934年)で5本目、『結婚十分前』(1934年)で6本目の共演となっている。 1935年にクロフォードは『蛍の光』でも共演した、ニューヨーク出身の舞台俳優フランチョット・トーンと結婚した。クロフォードとトーンは『今日限りの命』(1933年)で初共演し、すぐに意気投合した。ただし、当時のクロフォードはフェアバンクス・ジュニアと離婚したばかりで、新たな恋愛には二の足を踏んでいたともいわれている。結婚した二人は、クロフォードの自宅があったカリフォルニア州ブレントウッドに小さな劇場を建て、仲間うちで古典劇を上演して楽しんだ。クロフォードは結婚する以前からトーンのハリウッドでの俳優活動を支援、宣伝していたが、トーンは映画にはほとんど興味がなかったために、クロフォードも最後には諦めている。その後トーンは酒浸りとなり、クロフォードに暴力を振るうようになっていった。トーンとの結婚生活に耐えられなくなったクロフォードは離婚調停を申請し、1939年にこの申請が認められた。後にクロフォードとトーンは和解し、1964年にトーンがクロフォードに再び求婚したこともあった。1968年にトーンが死去したときには、クロフォードが火葬の手配をし、遺灰をカナダのマスコカ湖に散骨した。 1936年にクロフォードは『豪華一代娘』に、マーガレット・オニール・イートン (Margaret O'Neill Eaton) 役で出演し、ロバート・テイラーや当時はまだ夫だったフランチョット・トーンと共演した。興行成績は普通であり、MGMが期待したほどのヒットとはならなかった。また、この年にはクラーク・ゲーブルとの共演作『空駆ける恋』も公開されている。クロフォードが出演する作品の興行成績は概ね好調を続けていたが、クロフォード自身の人気は緩やかに落ち込んでいった。1937年にクロフォードは、雑誌『ライフ』で「映画界の女王」の称号で呼ばれているが、大衆からの人気の衰えは止まらなかった。1937年の夏には、クロフォードが出演する映画の興行成績順位が7位から40位に落ち込んでいる。1937年の『花嫁は紅衣装』は、その年のMGM最大の失敗作となってしまっている。1938年5月に雑誌『インディペンデント・フィルム・ジャーナル』は、グレタ・ガルボ、キャサリン・ヘプバーン、フレッド・アステア、ノーマ・シアラー、マレーネ・ディートリヒらと並んで、クロフォードを出演料が高く人気がある割には興行成績に貢献しない俳優 (Box Office Poison) として記事にした 。 クロフォードは1939年の『ザ・ウィメン』に、浮気相手の家庭を壊すクリスタル・アレン役で出演した。1940年の『Strange Cargo』は、8本目にして最後となるクラーク・ゲーブルとの共演作品となった。1941年の『女の顔』では、顔に醜い傷跡を持つ恐喝者アンナ・ホルム役を演じた。この映画は1938年に公開されたスウェーデン映画のリメイク作品で、このときのアンナ・ホルム役はハリウッド進出前の若きイングリッド・バーグマンが演じていた。 クロフォードが最初の養子となる娘を引き取ったのは1940年のことである。当時のクロフォードは独身であり、カリフォルニアの州法では養子をとることはできなかったために、クロフォードはラスベガスの代理人経由で養子縁組を成立させた。この娘はジョーンという名前で呼ばれていたが、クロフォードが引き取ったときにクリスティーナ (Christina) という名前に改名している。その後クロフォードは6カ月の交際期間を経て、1942年7月21日に俳優フィリップ・テリー (Phillip Terry) と結婚した。クロフォードとフィリップは二人目となるとなる養子をとり、クリストファーと名付けた。しかしながらクリストファーが生みの親のもとに戻されたために二人は別の養子を迎え、フィリップ・テリー・ジュニアと名付けた。しかしながら、1946年にクロフォードとフィリップは離婚したために、養子のフィリップ・テリー・ジュニアはクリストファー・クロフォードに改名している。 MGMと契約を結んでから18年後の1943年6月29日に、クロフォードとMGMは双方合意のもとで契約を終了した。このとき映画の製作契約がクロフォード側に数本分残っていたために、MGMはクロフォードに100,000ドルの違約金を支払っている。第二次世界大戦中にクロフォードはアメリカ女性志願兵 (American Women's Voluntary Services) の一員に加わっている。
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