東横経営の時代
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五島慶太が新築・開館した東宝五反田映画劇場は、東宝映画の封切館であった。東宝映画は、同館の新開館の1年前、1937年(昭和12年)9月10日に設立された新しい映画会社であった。同館が開館した1938年11月の東宝映画は、『虹に立つ丘』(監督大谷俊夫、同月3日公開)、『エノケンの大陸突進 後篇躍進また躍進の巻』(監督渡辺邦男、同日公開)、『ロッパのおとうちゃん』(監督斎藤寅次郎、同月9日公開)、『相馬の金さん』(監督稲葉蛟児、同月10日公開)、『吾亦紅 前篇』(監督阿部豊、同月20日公開)、『チョコレートと兵隊』(監督佐藤武、同月30日公開)を公開している。 1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については、紅系・白系の記載はなく「二番館」である旨の記述がある。同書によれば、同館の経営は五島慶太(東横映画)であり、支配人は伊藤松司、観客定員数は481名であった。大戦末期の1945年(昭和20年)5月24日、五反田地区を襲った空襲は、五反田駅の西側も東側も焼け野原にしており、同館は全焼・閉館を余儀なくされた。 空襲の爪痕深い五反田地区で、戦後間もない1946年(昭和21年)1月、五島慶太が同館を復興し、新たに五反田東横映画劇場として開館した。東横映画は、1947年(昭和22年)9月、京都の「大映第二撮影所」を賃貸して「東横映画撮影所」と改称、映画製作を開始する。同館は、同社の直営館として、同社の製作する映画の上映を開始したが、当時の東横映画は製作と興行のみの会社であって、東京映画配給が設立されるまでは、大映が東横作品の配給業務を行った。したがって、同館では、東横と大映の両作品を公開している。1949年(昭和24年)10月1日には東京映画配給が設立され、同館の興行系統は「東映系」(東京映画配給系の略)、つまり東横と太泉映画の両作品に変更された。当時の同館は、木造二階建で観客定員数は550名、支配人は戸田悦太郎であった。当時の五反田駅周辺には、東京セントラル劇場(のちの五反田日活劇場、五反田2丁目367番地、経営・東京国際興行、1950年6月開館)、五反田劇場(五反田1丁目261番地、経営・簱興行、1947年7月復興・開館)と同館の3館が復興していた。
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