東映東京制作所
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1965年7月、東京撮影所と京都撮影所内にそれぞれ、東映東京制作所、東映京都制作所(のち東映太秦映像)が新設された。東映の自社製作が減っていた現状を鑑み、貸しスタジオやテレビ映画、テレビドラマ、コマーシャルフィルム等の製作を行うための組織改革とされたが、実際は過激な組合活動家を押し込むための組織だった。佐伯孚治、折田至ら160人がここへ移動させられた。特に東京制作所は契約者が労働組合「東映東京制作所契約者労働組合」(東制労)を結成し、同じ敷地内の東京撮影所、東映動画(東映アニメーション)、東映テレビ・プロダクションの組合活動家を糾合、"東制労闘争"として会社に対する労組攻勢を強めた。出身者に植田泰治、やまさき十三、呉徳洙らがいる。1984年の『高原に列車が走った』は、ここを強権発動で潰したいと考えた岡田茂東映社長に植田泰治が啖呵を切って、東京制作所出身者を中心に製作されたもので、東映は長年、岡田茂が好きな映画だけが作られてきたが、同作は岡田が唯一、作りたくなかった映画といわれる。
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