前史・黎明期とは? わかりやすく解説

前史・黎明期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 04:39 UTC 版)

東映テレビ・プロダクション」の記事における「前史・黎明期」の解説

東映は、1957年昭和32年11月関係会社として日本教育テレビNETテレビ現在のテレビ朝日ホールディングス、以下、NETテレビ)を設立、翌1958年昭和33年5月には本社に「開発部テレビ課」を設置同年7月には、テレビ映画製作会社として株式会社東映テレビ・プロダクション旧社)を設立している。NETテレビは、1959年昭和34年2月本放送開始同月東映は、旧・株会社東映テレビ・プロダクションを「東映テレビ映画株式会社」と商号変更テレビ映画製作するとともに放映後のテレビ映画を各劇場配給する会社とした。1962年文献に「東映NET映画部であり、東映テレビ・プロダクションのであると書かれているNETテレビに出すフィルム番組一切東映作る方針で、その連続テレビ映画第一作東映京都撮影所(以下、東映京都)で製作した風小僧であった同作第一部から第四部までの52本が製作され1958年12月2日西日本放送RNC)での初放送皮切りに1959年2月3日NETテレビ同年3月3日大阪毎日放送テレビなどで放映開始した同作は、東映初のテレビ映画であるとされる第1部主演目黒ユウキであったが、1部降板し、第2部主演務めた山城新伍主演スターとして人気集めた。既に第二東映構想があったため、本作35mmフィルム撮影され一部再編し第二東映娯楽版として常設館転用する一石二鳥構想があったが、第二東映後退予想通り運ばなくなった。3か月後には、同社は、東映京都東映東京撮影所(以下、東映東京)の生産力増強し第二番線として配給するため、「東映テレビ映画株式会社」は「第二東映株式会社」へとさらなる商号変更行った詳細は「第二東映」を参照 渾大防五郎所長として采配を振るい、第一作風小僧』を皮切りに1959年11月までに、以降白馬童子39本、「歴史シリーズ」として『源義経』『新書太閤記』『大楠公』『幕末物語』『赤穂人々』が各1クール13本が製作された。日数かけられない仕事のため、パーマネント・セットを作って合理化しテレビ映画といえばロケーション本位だったのをセットを主に出来るようにして、それまで1クール13本の制作60かかっていたのを45日まで短縮させた。こうした実績から東映テレビ・プロダクションは、東映本社指揮から離れテレビ専用スタジオとしてステージ四杯、ダビング・ルーム一杯設備し作品企画本拠NET藤川公成映画部長の手元置いて同年11月2日新たに株式会社東映テレビ・プロダクション設立した設立当初本社は、東京都中央区京橋当時)の東映同一に置き、製作所練馬区東大泉町現在の東大泉)の東京撮影所内に置いた設立時陣容は、取締役社長大川博専務取締役壷井与(坪井与)、役員岡田茂伊藤義・今田智憲・関政次郎・上津原義夫・藤川公成(NET映画部長)、監査役平林義次・川口文雄と、東映本社の各重要パート人材網羅した。資本金50万円当時)。製作の中心担ったのは、渾大防五郎から所長交代した東映東京生え抜きの関政次所長NET映画部長の藤川公成。設立機に京都東映撮っていたテレビ映画東京統合したテレビ映画部門強化経緯当時アメリカニューヨーク七局のテレビが『ショウほど素敵な商売はない』『雨に唄えば』『或る夜の出来事』といった名作フィルムを、週平均108本、一局一日平均4時流し映画の都ハリウッドでもパラマウント映画除いてテレビ・フィルムの制作始め、その額は1億5000ドル540億円)に上るといわれ、アメリカゴールデン・アワー(夜7時30分11時)に毎週放映されるプログラム80%がハリウッド作られていたというテレビに於けるフィルム番組盛大物語状況があり、日本でもテレビ1000万時代がこの1962年にやってきそう予想され、やがて日本アメリカのようになっていくのではないか、という見通しから準備というより実行段階として東映テレビ・プロダクション設立された。1962年4月時点での東映テレビ・プロダクション社員230人。大川博東映社長が「週10本を製作せよ」と飛ばし1962年4月時点東映京都3本制作要請し、ほぼ制作体制整った当時テレビ映画制作費30分もので6080万円外国テレビ映画1時間ものが多くNHK1時間ものを作り始めたため、初の1時間もの『特別機動捜査隊』を製作した同作企画から完成までNET担当し制作費は140万円アメリカのテレビ映画35mm縮小で、制作費30分もの6ドル2160万円)、60分もの10万ドル3600万円)。60分ものの『ディック・パウエル・ショー(英語版)』が一本125000ドル(4500万円)。東映テレビ・プロダクション16mmフィルムヴィデオビデオ)を併用していた。『特別機動捜査隊』は、今後テスト・ケースとして、スタート以前45日の準備期間要求し企画充分に練ったテレビ映画テレビドラマというのは、裏番組強敵があるときなどは局側が調整に当たらなければならず、スポンサー聴視者の好み考えなければならないため、映画会社よりテレビ局、つまり東映よりNET企画制作イニシアティブを執っていた(1964年当時)。制作費が安いため、当然高額なギャラを取る映画スター起用不可能だった1962年4月時点邦画各社テレビ映画製作していたのは、東映以外では新東宝だけで、新東宝事実上解体同様であったが、別にスタジオ現場主体NAC(ニッポン・アートフィルム・カンパニー)を作って電通フジテレビTBS応援テレビ映画その他の専門工場としてスタート切っていた。 いっぽう東映京都では、1964年昭和39年2月テレビ時代劇のために東映京都テレビ・プロダクション設立1990年解散)、同年7月24日放映開始した忍びの者』(主演品川隆二、全52回)を第1回作品として製作した1965年昭和40年11月6日東映は、東映テレビ・プロダクションとは別にPR映画やテレビ映画受注製作を目的とした東映東京制作所1965年 - 1985年)を東映東京内に設立している。『スパイキャッチャーJ3』(1965年 - 1966年)、『キイハンター』(1968年 - 1973年、全262回)、あるいは「東映不思議コメディーシリーズ」(1981年 - 1993年)を製作したのは、東映テレビ・プロダクションではなく初期においては東映東京制作所後期1985年以降においてはその後身である東映東京第二企画製作部である。

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