前史・黎明期
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「東映テレビ・プロダクション」の記事における「前史・黎明期」の解説
東映は、1957年(昭和32年)11月、関係会社として日本教育テレビ(NETテレビ、現在のテレビ朝日ホールディングス、以下、NETテレビ)を設立、翌1958年(昭和33年)5月には本社に「開発部テレビ課」を設置、同年7月には、テレビ映画の製作会社として株式会社東映テレビ・プロダクション(旧社)を設立している。NETテレビは、1959年(昭和34年)2月に本放送を開始。同月、東映は、旧・株式会社東映テレビ・プロダクションを「東映テレビ映画株式会社」と商号変更、テレビ映画を製作するとともに、放映後のテレビ映画を各劇場に配給する会社とした。1962年の文献に「東映―NET映画部であり、東映テレビ・プロダクションなのである」と書かれている。NETテレビに出すフィルム番組は一切東映が作る方針で、その連続テレビ映画第一作が東映京都撮影所(以下、東映京都)で製作した『風小僧』であった。同作は第一部から第四部までの52本が製作され、1958年12月2日に西日本放送(RNC)での初放送を皮切りに、1959年2月3日にNETテレビ、同年3月3日に大阪の毎日放送テレビなどで放映を開始した。同作は、東映初のテレビ映画であるとされる。第1部の主演は目黒ユウキであったが、1部で降板し、第2部で主演を務めた山城新伍が主演スターとして人気を集めた。既に第二東映の構想があったため、本作は35mmフィルムで撮影され、一部を再編して第二東映娯楽版として常設館で転用する一石二鳥の構想があったが、第二東映の後退で予想通り運ばなくなった。3か月後には、同社は、東映京都と東映東京撮影所(以下、東映東京)の生産力を増強し、第二番線として配給するため、「東映テレビ映画株式会社」は「第二東映株式会社」へとさらなる商号変更を行った。 詳細は「第二東映」を参照 渾大防五郎が所長として采配を振るい、第一作『風小僧』を皮切りに1959年11月までに、以降『白馬童子』39本、「歴史シリーズ」として『源義経』『新書太閤記』『大楠公』『幕末物語』『赤穂の人々』が各1クール13本が製作された。日数のかけられない仕事のため、パーマネント・セットを作って合理化し、テレビ映画といえばロケーション本位だったのをセットを主に出来るようにして、それまで1クール13本の制作に60日かかっていたのを45日まで短縮させた。こうした実績から東映テレビ・プロダクションは、東映本社の指揮から離れテレビ劇専用のスタジオとしてステージ四杯、ダビング・ルーム一杯を設備し、作品企画の本拠をNET藤川公成映画部長の手元に置いて、同年11月2日、新たに株式会社東映テレビ・プロダクションを設立した。設立当初の本社は、東京都中央区京橋(当時)の東映と同一に置き、製作所を練馬区東大泉町(現在の東大泉)の東京撮影所内に置いた。設立時の陣容は、取締役社長・大川博、専務取締役・壷井与(坪井与)、役員:岡田茂・伊藤義・今田智憲・関政次郎・上津原義夫・藤川公成(NET映画部長)、監査役:平林義次・川口文雄と、東映本社の各重要パートの人材を網羅した。資本金は50万円(当時)。製作の中心を担ったのは、渾大防五郎から所長を交代した東映東京生え抜きの関政次郎所長とNET映画部長の藤川公成。設立を機に京都と東映で撮っていたテレビ映画を東京に統合した。テレビ映画部門強化の経緯は当時、アメリカニューヨーク七局のテレビが『ショウほど素敵な商売はない』『雨に唄えば』『或る夜の出来事』といった名作フィルムを、週平均で108本、一局一日平均4時間流し、映画の都ハリウッドでもパラマウント映画を除いてテレビ・フィルムの制作を始め、その額は1億5000万ドル(540億円)に上るといわれ、アメリカのゴールデン・アワー(夜7時30分―11時)に毎週放映される全プログラムの80%がハリウッドで作られていたというテレビに於けるフィルム番組の盛大を物語る状況があり、日本でもテレビ1000万台時代がこの1962年にやってきそうと予想され、やがて日本もアメリカのようになっていくのではないか、という見通しから準備というより実行の段階として東映テレビ・プロダクションは設立された。1962年4月時点での東映テレビ・プロダクションの社員は230人。大川博東映社長が「週10本を製作せよ」と檄を飛ばし、1962年4月時点で東映京都で3本の制作を要請し、ほぼ制作体制が整った。当時のテレビ映画の制作費は30分もので60万~80万円。外国テレビ映画は1時間ものが多く、NHKも1時間ものを作り始めたため、初の1時間もの『特別機動捜査隊』を製作した。同作は企画から完成までをNETが担当し、制作費は140万円。アメリカのテレビ映画は35mmの縮小で、制作費は30分もの6万ドル(2160万円)、60分もの10万ドル(3600万円)。60分ものの『ディック・パウエル・ショー(英語版)』が一本12万5000ドル(4500万円)。東映テレビ・プロダクションは16mmフィルムとヴィデオ(ビデオ)を併用していた。『特別機動捜査隊』は、今後のテスト・ケースとして、スタート以前に45日の準備期間を要求し企画を充分に練った。テレビ映画、テレビドラマというのは、裏番組に強敵があるときなどは局側が調整に当たらなければならず、スポンサーや聴視者の好みを考えなければならないため、映画会社よりテレビ局、つまり東映よりNETが企画や制作のイニシアティブを執っていた(1964年当時)。制作費が安いため、当然高額なギャラを取る映画スターの起用は不可能だった。1962年4月時点で邦画各社でテレビ映画を製作していたのは、東映以外では新東宝だけで、新東宝は事実上解体同様であったが、別にスタジオ現場を主体にNAC(ニッポン・アートフィルム・カンパニー)を作って、電通、フジテレビ、TBSの応援でテレビ映画その他の専門工場としてスタートを切っていた。 いっぽう東映京都では、1964年(昭和39年)2月、テレビ時代劇のために東映京都テレビ・プロダクションを設立(1990年解散)、同年7月24日に放映を開始した『忍びの者』(主演品川隆二、全52回)を第1回作品として製作した。1965年(昭和40年)11月6日、東映は、東映テレビ・プロダクションとは別に、PR映画やテレビ映画の受注製作を目的とした東映東京制作所(1965年 - 1985年)を東映東京内に設立している。『スパイキャッチャーJ3』(1965年 - 1966年)、『キイハンター』(1968年 - 1973年、全262回)、あるいは「東映不思議コメディーシリーズ」(1981年 - 1993年)を製作したのは、東映テレビ・プロダクションではなく、初期においては東映東京制作所、後期(1985年以降)においてはその後身である東映東京第二企画製作部である。
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