東映実録映画の歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 東映実録映画の歴史の意味・解説 

東映実録映画の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 08:38 UTC 版)

実録シリーズ」の記事における「東映実録映画の歴史」の解説

実録映画というと通常は「実録ヤクザ映画」や「実録犯罪映画」、有名な事件イベント、人などの内幕を描く映画イメージすることが多いが、岡田は「実録犯罪映画」「実録猟奇犯罪映画」(エクスプロイテーション映画)のパイオニアでもある(戦後猟奇犯罪史#東映実録犯罪映画)。戦前さかんに作られといわれる実録犯罪映画」は、戦後各社娯楽性の高い映画量産され、あまり作られなかった。東映娯楽時代劇量産したため手を出さなかったが、1965年半ば以降岡田時代劇ヤクザ映画エログロ映画転換する過程で、企画として挙げてきた。岡田プロデュース三作目は、横溝正史津山事件ヒント執筆したといわれる八つ墓村』の映画化1951年の『八ツ墓村』で、早い時期実録犯罪ものに興味持っていた。こうした小説由来ではないオリジナルの「実録犯罪映画」は、東映では延命院日当扱った1966年3月公開の『女犯破戒』(田村高廣主演工藤栄一監督)が最初。これは実録ものをやろうとして挙げた企画ではなく好色路線東映ポルノ)の一つとして思いいたものであった。次が石井輝男異常性愛路線敷いた際に企画した1969年8月公開の『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』。『猟奇女犯罪史』の製作を伝え当時スポーツニッポン1969年8月21日記事に「史実再現した異色!! 五大犯罪事件に見る愛欲陰惨な様相」「『猟奇女犯罪史』で実話路線なるものの先鞭をつけた」などの記述見られ内外タイムス1969年7月30日には「東映、"実話路線"へ 第一弾は『猟奇女犯罪史』東映が㊙シリーズかわって新しく女の本性を描く、"実話路線"を打ち出した」などと書かれている。『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、後のワイドショー再現フィルム影響与えた評価され今日映画は勿論、テレビ再現ドラマでもよく扱われる"実録犯罪もの"とハシリといわれる。また同じ1969年秋の『日本暗殺秘録』製作を伝え記事に「東映刺激路線から、実話路線に切り変え日本暗殺秘録』がこのほどクランクイン」、「八つ事件実録風に」という記述見られ。「東映では明年1970年五月に実録二・二六事件』という作品企画しており…」という記事見られる。『日本暗殺秘録』は、岡田が「70年安保控えて映画時代即応した強度暴力が受けるはず。鶴田浩二次回作『日本暴力団 組長』でさえ、"ゲバふう"のムード取り入れるつもりだ」などと打ち出した暴力路線」「ゲバルト路線」の第一弾であった岡田当時東映映画の製作配給興行全ての責任者だった。また文中に"実録"とは書かれていない1968年夏の複数文献に「ヤクザ映画もやりますお色気も…というゴッタ商法プランナー東映岡田茂常務(製作本部長)が『ああ全学連』を企画している」などという記事があり、岡田は「世界勇名馳せた安保騒動と、いまの世界的なスチューデント・パワーね、これを背景にした全学連第二次黄金時代正面から取り上げよう思ったんです...特定のイデオロギー捉われず、あくまでも中立的な立場いきたい。したがって派閥関係にも細心の注意払いたい全学連をひとつの若いエネルギー表れとして捉えてみたい。樺美智子さんの死とか、騒動のあと別の人生たどった者もいる...やはりドラマ必要だ考えなおしているとこ...今や"ゼンガクレン"は、フジヤマゲイシャ並んで世界に冠たるニッポン名物。『ゼンガクレン』というタイトル海外にも輸出できる公開来年1969年6月予定監督は"闘士"の中島貞夫キャスト新劇人を中心に組むつもりだ」などと話しており、1960年代後半に、既に"実録犯罪路線"を実施していた。毎日新聞実録路線転換ではなく任侠路線から政治路線への転換か?」と書いている。つまり1973年の『仁義なき戦い』の大ヒット実録路線思いついたのではなく実録路線は元からやっていたが、「実録ヤクザ映画」がウケたため、これはいけると「実録ヤクザ映画」を路線化したのである岡田東映社長は、"実録もの"がマスコミ話題になりやすいことから、しきりに「実録もの作れ」と指示したマスコミ話題はなったが、トラブル続出し、ある"実録もの"を見て本気で怒った暴力団関係者が、東映映画責任社長にあると、「岡田茂殺しに行く」という物騒な話が出て俊藤浩滋ビックリして知り合い頼んで収めてもらったこともあるという。 「仁義なき戦いシリーズ」のキャメラマン吉田貞次は、「実録やくざ映画岡田茂社長考え方がすごく入ってる。大川博さんが生きていたら実録やくざ映画生まれなかったでしょうそこそこは、やったかもしれないけど、あんな極端には、やらせなかっただろうと思う」と述べている。岡田は、「実録路線でいこうと。何となくそういう勘があった。でも実在親分コケにするような場面もあって、よくやれたなと思うね」などと話している。 実録映画量産できたのは岡田田岡一雄と仲がよかったためで、実録映画脚本多数手掛けた高田宏治は「『あいつぶちのめす』といわれたこともあったけど、僕の場合東映守ってくれた。田岡一雄さんが壁になってくれたんです」と述べている。 「実録路線」の旗手となったのは深作欣二であった深作戦後に対して強い問題意識持っていた。東映実録路線全般凡庸なヤクザ映画堕することなく時代を撃つような批判力を持つ物になったのも、戦後史の底辺流れていた物を掴み出したいという意思が、作り手側に確固としてあったからである。虚飾剥ぎ取り内実迫ろうとするこうした動きは、時代趨勢だったといえる

※この「東映実録映画の歴史」の解説は、「実録シリーズ」の解説の一部です。
「東映実録映画の歴史」を含む「実録シリーズ」の記事については、「実録シリーズ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東映実録映画の歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東映実録映画の歴史」の関連用語

東映実録映画の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東映実録映画の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの実録シリーズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS