東映実録映画の歴史
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「実録映画」というと通常は「実録ヤクザ映画」や「実録犯罪映画」、有名な事件やイベント、人などの内幕を描く映画をイメージすることが多いが、岡田は「実録犯罪映画」「実録猟奇犯罪映画」(エクスプロイテーション映画)のパイオニアでもある(戦後猟奇犯罪史#東映実録犯罪映画)。戦前さかんに作られたといわれる「実録犯罪映画」は、戦後各社娯楽性の高い映画が量産され、あまり作られなかった。東映も娯楽時代劇を量産したため手を出さなかったが、1965年半ば以降、岡田が時代劇をヤクザ映画やエログロ映画に転換する過程で、企画として挙げてきた。岡田のプロデュース三作目は、横溝正史が津山事件をヒントに執筆したといわれる『八つ墓村』の映画化、1951年の『八ツ墓村』で、早い時期に実録犯罪ものに興味を持っていた。こうした小説由来ではないオリジナルの「実録犯罪映画」は、東映では延命院日当を扱った1966年3月公開の『女犯破戒』(田村高廣主演・工藤栄一監督)が最初。これは実録ものをやろうとして挙げた企画ではなく、好色路線(東映ポルノ)の一つとして思いついたものであった。次が石井輝男と異常性愛路線を敷いた際に企画した1969年8月公開の『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』。『猟奇女犯罪史』の製作を伝える当時のスポーツニッポン1969年8月21日の記事に「史実を再現した異色作!! 五大犯罪事件に見る愛欲の陰惨な様相」「『猟奇女犯罪史』で実話路線なるものの先鞭をつけた」などの記述が見られ、内外タイムス1969年7月30日には「東映、"実話路線"へ 第一弾は『猟奇女犯罪史』東映が㊙シリーズにかわって、新しく女の本性を描く、"実話路線"を打ち出した」などと書かれている。『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、後のワイドショーの再現フィルムに影響を与えたと評価され、今日、映画は勿論、テレビの再現ドラマでもよく扱われる"実録犯罪もの"とハシリといわれる。また同じ1969年秋の『日本暗殺秘録』製作を伝える記事に「東映は刺激路線から、実話路線に切り変え『日本暗殺秘録』がこのほどクランクイン」、「八つの事件、実録風に」という記述が見られ。「東映では明年(1970年)五月に『実録二・二六事件』という作品も企画しており…」という記事が見られる。『日本暗殺秘録』は、岡田が「70年安保を控えて映画も時代に即応した強度の暴力が受けるはず。鶴田浩二の次回作『日本暴力団 組長』でさえ、"ゲバふう"のムードを取り入れるつもりだ」などと打ち出した「暴力路線」「ゲバルト路線」の第一弾であった。岡田は当時、東映映画の製作・配給・興行の全ての責任者だった。また文中に"実録"とは書かれていないが1968年夏の複数の文献に「ヤクザ映画もやります、お色気も…というゴッタ煮商法のプランナー・東映岡田茂常務(製作本部長)が『ああ全学連』を企画している」などという記事があり、岡田は「世界に勇名を馳せた安保騒動と、いまの世界的なスチューデント・パワーね、これを背景にした全学連の第二次黄金時代を正面から取り上げようと思ったんです...特定のイデオロギーに捉われず、あくまでも中立的な立場でいきたい。したがって派閥関係にも細心の注意を払いたい。全学連をひとつの若いエネルギーの表れとして捉えてみたい。樺美智子さんの死とか、騒動のあと別の人生をたどった者もいる...やはりドラマは必要だと考えなおしているとこ...今や"ゼンガクレン"は、フジヤマ、ゲイシャと並んで、世界に冠たるニッポン名物。『ゼンガクレン』というタイトルで海外にも輸出できる。公開は来年(1969年)6月を予定。監督は"闘士"の中島貞夫、キャストは新劇人を中心に組むつもりだ」などと話しており、1960年代後半に、既に"実録犯罪路線"を実施していた。毎日新聞は実録路線の転換ではなく「任侠路線から政治路線への転換か?」と書いている。つまり1973年の『仁義なき戦い』の大ヒットで実録路線を思いついたのではなく、実録路線は元からやっていたが、「実録ヤクザ映画」がウケたため、これはいけると「実録ヤクザ映画」を路線化したのである。 岡田東映社長は、"実録もの"がマスコミの話題になりやすいことから、しきりに「実録ものを作れ」と指示した。マスコミの話題にはなったが、トラブルも続出し、ある"実録もの"を見て本気で怒った暴力団関係者が、東映映画の責任は社長にあると、「岡田茂を殺しに行く」という物騒な話が出て、俊藤浩滋がビックリして知り合いに頼んで収めてもらったこともあるという。 「仁義なき戦いシリーズ」のキャメラマン・吉田貞次は、「実録やくざ映画は岡田茂社長の考え方がすごく入ってる。大川博さんが生きていたら実録やくざ映画は生まれなかったでしょう。そこそこは、やったかもしれないけど、あんな極端には、やらせなかっただろうと思う」と述べている。岡田は、「実録路線でいこうと。何となくそういう勘があった。でも実在の親分をコケにするような場面もあって、よくやれたなと思うね」などと話している。 実録映画が量産できたのは岡田が田岡一雄と仲がよかったためで、実録映画の脚本を多数手掛けた高田宏治は「『あいつぶちのめす』といわれたこともあったけど、僕の場合は東映が守ってくれた。田岡一雄さんが壁になってくれたんです」と述べている。 「実録路線」の旗手となったのは深作欣二であった。深作は戦後史に対して強い問題意識を持っていた。東映実録路線全般が凡庸なヤクザ映画に堕することなく、時代を撃つような批判力を持つ物になったのも、戦後史の底辺に流れていた物を掴み出したいという意思が、作り手側に確固としてあったからである。虚飾を剥ぎ取り、内実に迫ろうとするこうした動きは、時代の趨勢だったといえる。
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