テレビ業界へ
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1953年、日本テレビ放送網の開局社員として入社。映画部長(初代)として日本映画のテレビ放送を提案するが五社協定の取り決めで断念。外国映画を日本語吹替でテレビ放送することを発案し、1956年『ロビンフッドの冒険』を放送。映画関係者からは「暴挙」と酷評されるも、視聴者からは「わかりやすい」と好感を受ける。その後も、外国映画や海外ドラマを日本語吹替で放送する最高責任者として『名犬リンチンチン(英語版)』『パパは何でも知っている』などを担当した。 1961年2月より編成局次長、1963年4月より報道局次長(局長待遇)、1966年9月より芸能局次長(局長待遇)、1967年8月より芸能局顧問を歴任。 1967年2月から1968年6月にかけて、日本科学技術振興財団の経営難に伴い、他の在京民放テレビ局4社が共同で設立した「科学テレビ協力委員会」の委員となり、当時の東京12チャンネル(現:テレビ東京)に出向、同チャンネルの経営再建を手がけた。「科学テレビ協力委員会」は特定のテレビ局が東京12チャンネルの経営主導権を支配(して合併)しないように、牽制・監視する目的もあった。 1970年に日本テレビを60歳で定年退職。同年11月より東京テレビセンターに移籍、CMスタジオ室長を務める。 2014年9月12日、東京都内の病院で老衰のため103歳で死去。
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テレビ業界へ
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大学卒業後は寿司屋やアパレルメーカーのアルバイトを経て、1973年にIVSテレビ制作に入社。2年後に放送が開始された『びっくり日本新記録』にADとして参加し、テレビマンとしてのキャリアを開始させた。その後、「シマウマは素肌も白黒か?」や「たこ八郎に東大生の血液を輸血してIQ上昇実験」などを手掛けた。 1985年に独立しロコモーションを設立。IVSにも籍を残し、自身も手がけていたIVS制作番組の『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や『ねるとん紅鯨団』のゼネラルディレクター・総合演出を引き続き行った。ロコモーションとしては電通や吉本興業と共に立ち上げた『浅草橋ヤング洋品店』がテレビ東京としては好調な番組となった。 1993年、北朝鮮を訪問した際の体験談などを綴った『お笑い北朝鮮』を出版した。 小泉純一郎の郵政民営化の際には、新聞広告に竹中平蔵とともに登場し、民営化賛成の旗振り役を務めた 2007年頃、「キャラクタービジネスで”10億円稼ぐ”」ことを目標にプロジェクトを立ち上げ、「ナニティー」というキャラクターを誕生させる。また、その模様を2年半に亘り追ったドキュメンタリー映画『10億円稼ぐ』では自ら監督を務めた。
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