日本映画 (映画会社)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 07:15 UTC 版)
日本映画株式会社(にほんえいが、1933年 設立 - 1934年 倒産)は、かつて存在した日本の映画会社である。東活映画社を母体とし、東京・調布に撮影所を建設したが、企業自体は短命に終わった。
日本映画社と表記されることもあるが、ニュースフィルム製作の「日本映画社」とは別法人である。
略歴・概要
1932年(昭和7年)、京都の等持院撮影所で映画を量産していた「東活」が、東京地区に撮影所を新設しようと本多嘉一郎を派遣、北多摩郡調布町大字布田小島分(現在の東京都調布市多摩川6-1-1、角川大映撮影所)に白羽の矢を立てた[1]が、まもなく「東活」は解散、京都の撮影所は競売に付された。
解散した「東活」を母体に、同社の社長中山貞雄が京王電気軌道(現在の京王電鉄)と提携し、1933年(昭和8年)に設立されたのがこの日本映画株式会社である[2]。ひきつづき「日本映画多摩川撮影所」として建設した。当時のレジャーランド「京王閣」、および「多摩川原駅」(現在の京王多摩川駅)が至近の好立地であった。
1934年(昭和9年)、同社は倒産、建設した撮影所は日活が買収し、「日活多摩川撮影所」となったが、第二次世界大戦時の統制で1942年、合併して「大映多摩川撮影所」となった。戦後、本多は1962年7月の選挙で当選し、第4代調布市長となった。
フィルモグラフィ
- 『浅草三重奏』(1933年3月8日公開、監督:麻生喬)
- 『旅合羽だんだら染』(1933年3月8日公開、監督:志波西果)
- 『上海から来た女』(1933年公開、監督:中村能二)
註
「日本映画 (映画会社)」の例文・使い方・用例・文例
- 日本映画製作者連盟によると,2002年の映画興行収入は,前年より1.7%減の1968億円となった。
- 「踊る大捜査線THE MOVIE 2―レインボーブリッジを封鎖せよ!」が特に人気で,実写の日本映画としてこれまでで最高の収益を得た。
- 日本映画製作者連盟と他の3つの映画関連団体がこのキャンペーンを進めている。
- 日本映画の記念切手発行へ
- 10月10日に日本郵政公社が日本映画を題材とした記念郵便切手を発行する。
- 日本映画を題材とした郵便切手は過去に2回発行されているが,それほど多くの映画を題材とした切手が一度に発行されるのは今回が初めてだ。
- 日本郵政公社はこれらの切手が日本映画に対する関心を促す手助けになればと願っている。
- 日本映画製作者連盟によると,2008年の映画興行収入1位は「崖(がけ)の上のポニョ」だった。
- 日本映画2作品がアカデミー賞受賞
- 日本映画「おくりびと」が今年の最優秀外国語映画に選ばれた。
- 「おくりびと」は同賞を受賞した初めての日本映画だが,外国語映画賞が正式部門として設立された1956年より前には,日本映画3作品がアカデミー賞名誉賞を受賞していた。
- また,今年は別の日本映画もオスカーの栄誉に輝いた。
- その葬儀会社の役員は偶然にも今年アカデミー賞を受賞した日本映画「おくりびと」の基になった本の著者だ。
- 選ばれて本当に驚いているが,日本映画界に貢献してきたすべての人を代表して賞をいただけるのはとてもうれしい。
- 日本映画がこの賞を受賞するのは26年ぶりだ。
- 日本映画がモスクワ映画祭で賞を受賞
- 6月下旬に開催されたモスクワ国際映画祭で,日本映画「さよなら渓谷」が審査員特別賞を受賞した。
- 主演を務めた女優の真(ま)木(き)よう子さんは,「大森監督の制作チームで働くような人々が日本映画界にいる限り,私は決して女優をやめません。」と語った。
- 高倉さんは「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」や「鉄道(ぽっぽ)員(や)」など,多くの日本映画に出演している。
- 日本映画「私の男」が最優秀作品賞を受賞した。
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