こうじょうのつき〔クワウジヤウのつき〕【荒城の月】
荒城の月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/02 05:23 UTC 版)
『荒城の月』(こうじょうのつき、歴史的仮名遣い:くわうじやうのつき)は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。哀調をおびたメロディと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。特に、日本で作曲された初めての西洋音楽の歌曲とされ、日本の歴史的に重要な曲である。
注釈
出典
- ^ 『山田耕筰作品全集9』所収。以下、楽譜上の旋律の変化の経緯については、外部リンク「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」を参照。
- ^ a b 海老澤敏『瀧廉太郎』p.218。
- ^ セノオ楽譜九十二番(セノオ音楽出版社、国立音楽大学附属図書館所蔵)。
- ^ 『山田耕筰の遺産11 器楽曲篇』(日本コロムビアCOCA13181)解説。
- ^ 「『赤とんぼ』ベスト1に 後世に残す日本のうた」『読売新聞』1989年10月12日付朝刊、30頁。
- ^ “日本の歌百選” (PDF). 文化庁. 2024年3月24日閲覧。
- ^ https://twitter.com/tsukimichi_PR/status/1679325022039715842
- ^ https://twitter.com/nassy_takanashi/status/1679408021037002753
荒城の月
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「春の如く〜It might as well be spring〜」の記事における「荒城の月」の解説
1901年発表の旧制中学校唱歌。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。
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荒城の月
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「HITOSI MATUMOTO VISUALBUM」の記事における「荒城の月」の解説
下水道に住む初老の夫婦(夫…浜田、妻…松本)は、トイレに来た子供たちをさらい楽団を結成させている。そして「みんなが上を見るから妬み・嫉みが生まれる。下を見れば皆平等!」「上こそ下界、上こそ肥溜」といったイデオロギー教育を施している。しかしそんな夫婦の努力もむなしく、地上では警察と子供たちの親による奪還計画が進められていた…。
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荒城の月
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1951年(昭和26年)、当時の竹田町民から寄贈されたレコードを使って、改札を担当する駅員が列車の発着時に瀧廉太郎作曲の歌曲「荒城の月」を流しており、現在の発車メロディ・接近メロディにあたるものとなっていた。当時は同じ瀧作曲の「菊」も流していた。 そのため、川端康成が1953年(昭和28年)に発表した「波千鳥」中に当駅で「荒城の月」の唱歌が流れることが登場している。 また、長年にわたり駅で流れてきたことから、地元の市民の間では竹田に帰ってきたことを感じさせる曲にもなっている。 当初は山田耕筰が編曲したものが流されていたが、1987年(昭和62年)秋に当駅で曲を聞いた小沢昭一が竹田市長に「廉太郎ゆかりの地には原曲がふさわしい」と要請。これを受けた市は1988年(昭和63年)瀧廉太郎の原曲で、竹田市少年少女合唱団が歌ったものを作成、それを駅に依頼して流している。
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