朝比奈隆と上海音楽協会交響楽団
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「上海交響楽団」の記事における「朝比奈隆と上海音楽協会交響楽団」の解説
1943年指揮者朝比奈隆は、外務省(当時大東亜省)に上海行きを命ぜられ、12月8日に「大東亜戦争二周年記念演奏会」を皮切りに、約2か月にわたり定期演奏会を指揮した。「日本人にもオーケストラを振ることができる」ことを団員にも聴衆にも見せつける必要があったためである。日本でユダヤ系ロシア人であるエマヌエル・メッテルに学んだ朝比奈は、団員の受けも良かった。朝比奈は週一回の定期演奏会を指揮し、当時の上海音楽協会交響楽団のことを「事務局に日本人が1人いるだけで、楽団員にはロシア人とイタリア人が主力で、ドイツ人、フランス人やユダヤ人もいる。バイオリンのトップはイタリア人でチェロとコントラバスはロシア人、ホルンと木管楽器は全部イタリア人、金管楽器は全部ロシア人という理想的な人員構成の優秀なオーケストラだった」と回想している。
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