朝比奈義秀と巴御前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 09:26 UTC 版)
『源平盛衰記』では木曾義仲滅亡後、義仲の愛妾であった女武者巴御前が鎌倉へ下り、義盛があのような剛の者に子を産ませたいと頼朝に申し出て、巴を娶ったのち朝比奈義秀が生まれたとしている。しかし『吾妻鏡』の記録によると義仲滅亡時に義秀はすでに9歳になっており、巴が義秀の母というのは年齢的にありえず、物語上の創作と見られる。また、義盛が巴を妻としたとするのも『源平盛衰記』のみで、『吾妻鏡』や『平家物語』にも見られない話である。義秀は天下無双の大力と称され(群書系図)、鎌倉朝比奈峠を一夜で切通したという伝承をもつ豪傑であるから、その豪傑の義秀と、勇婦の巴を結び付けたのであろう。このような伝承が生じた背景を案ずれば、和田義盛は、侍別当として屋敷に罪人を預かる牢屋を備えていたから、巴を三浦の自館に預かっていた可能性も考えられる。
※この「朝比奈義秀と巴御前」の解説は、「和田義盛」の解説の一部です。
「朝比奈義秀と巴御前」を含む「和田義盛」の記事については、「和田義盛」の概要を参照ください。
- 朝比奈義秀と巴御前のページへのリンク