東京高等学校 (旧制)とは? わかりやすく解説

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東京高等学校 (旧制)

(旧制東京高等学校 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/18 07:48 UTC 版)

東京高等学校
(東高)
創立 1921年
所在地 東京府豊多摩郡中野町
(現・東京都中野区
初代校長 湯原元一
廃止 1950年
後身校 東京大学教育学部附属中等教育学校
同窓会 東京高等学校
同窓会

旧制東京高等学校(きゅうせいとうきょうこうとうがっこう)は、1921年大正10年)11月に設立された官立の旧制七年制高等学校。当時の略称は「東高」(とうこう / とんこう)。

概要

  • 3年制の高等科に加え4年制の尋常科を設置する、日本初の7年制一貫教育の高等学校であった。
  • 初代校長の湯原元一イギリスパブリックスクールを範とする自由主義教育を推進したこともあり、校風は他校のバンカラ的でかつ日本的な管理型教育と一線を画して、自主自律のスマートで特色のある校風であった。その都会的で軽快なイメージから、ひところ「ジェントルマン高校」の異名がつき、比較的良家の子弟が通う学校であった。
  • 寄宿舎として「大成寮」が設置され、1年生は原則として全寮制であった。
  • 東京高等学校の名称を巡っては、同じく七年制で日本初の私立高校である旧制武蔵高等学校が当初は「東京高等学校」とする予定であったのを、同時期に設立が決まった官立の本校に譲ったという経緯がある。
  • 卒業生により東京高等学校同窓会 - ウェイバックマシン(2004年6月11日アーカイブ分)が結成されている。同窓会員は、1回から23回までの卒業生と、高等科1年修了のみの24回生、尋常科のみ修了の25回生で構成されている。
  • 現行の東京高等学校上野清によって設立された上野塾を起源とする私学であり、校名も当校廃止後の1954年から名乗り始めたものであるため、関連性は全く無い。

沿革

初代校長・湯原元一

東校の創立と校風の形成

当時の日本の七年制高校は、大正期に大学の範囲が旧制帝国大学から私立大学も含むように拡大された学制改革(1918年)とともに、高等学校が大増設される中で、新たな制度として1918年公布(翌1919年施行)の第二次高等学校令に基づき、高等学校は本科たる高等科の予備課程として(旧制)中学校の課程に相当する「尋常科」(修業年限4年)を併設することが可能で、東京高等学校は、日本初の7年制一貫教育(現在の中高一貫校制度に加え大学の1年間の教養課程)の高等学校のひとつとして誕生した。尋常科(修業年限4年)、および文科理科の高等科(修業年限3年)からなる官立7年制高校は、日本には2校のみ(旧制東京高等学校/1921年・旧制台北高等学校/1922年)だけ存在した。

七年を掛けてLiberal arts and sciences を教えるような学校をつくることが創設趣旨であり、英国のパブリックスクールやドイツのギムナジウムに範を取り、官立高校としては唯一高等科の文理両方に「丙類」(仏語専修)を設置するなど、独特の教育制度のもとに数々の傑出した人材を生みだした。東京帝大への進学率は8割に達し、エリート教育を実践する名門校であった。

以下は、三国一朗(エッセイスト)の回想[1]より。名古屋の八高を卒業し、昭和十六年(1941年)春に東京帝大文学部社会学科に入った三国は、口の利き方、制服の着こなしまではっきりちがう「異様なタイプの東大生の一群」に出会ってびっくりした、と回想している。三国は「彼らは私にとって<異邦人>に他ならなかった」とも言うが、そのスマートで紳士的な一群は七年制の旧制東京高等学校の出身者だった。

戦時下の東高

1941年(昭和16年)の太平洋戦争の開戦とともに、東高の校風は自由主義から軍国主義に傾いた。当時の状況を1940年網野善彦は「あの学校はわりに自由な雰囲気があったんです。ところが入学した年か翌年にきた文部省送りこみの校長が、東京高校はどうもたるんでいる自由主義的でけしからんということで、反動的にひどくなっていった」と述べている[2]。この校長は時期からすれば、藤原正である。北海道帝国大学予科主事を経て現職[3]。北大予科でも、風紀取締りに力を入れていた[4]1941年に東京高校高等科に入った星新一は「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」と述べている[5]。1941年に東京高校高等科に入った永山貞則もまた「高等科に入った昭和16年の12月に太平洋戦争がはじまって、軍国主義的な風潮が校内にも入ってきて、自由な空気も薄れてきました」と述べている[6]

戦時中の臨時措置

太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月に再び修業年限3年に改められたため、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。


1922年4月入学→1929年3月卒業(正規7年)(*尋常科1年生=1回生)
1940年4月入学→1942年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1941年4月入学→1943年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1942年4月入学→1943年11月仮卒業→1944年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1943年4月入学→1945年3月卒業(正規2年)
1944年4月入学→1947年3月卒業(正規2年・1年延長)
1945年4月入学→1948年3月卒業(正規2年・1年延長)
1946年4月入学→1949年3月卒業(正規3年)(*尋常科1年生募集=東京大学教育学部附属中等教育学校1回生)
1947年4月入学→1950年3月卒業(正規3年)(*尋常科1年生=募集停止)
1948年4月入学(学校改革により新制高校開始)→1949年3月修了(*尋常科2年生募集=東京大学教育学部附属中等教育学校2回生、尋常科1年生募集=東京大学教育学部附属中等教育学校3回生)

新制東京大学への移行

第二次世界大戦終了後にGHQ要請で設置されていた教育刷新委員会(委員長は東京帝国大学 南原繁総長)において、旧制高等学校の今後について、それらを国立大学に含める案と、カレッジ(独立学校)として前期大学を担わせる案(全国高等学校校長会議案)とが審議され、昭和22年12月下旬に後案が葬られ旧制高等学校の消滅が決定した。1948年(昭和23年)GHQの指導による旧制高校制度廃止に伴い、六・三・三・四の新学制が始まり、東高は新制東京大学に包括され、高等科は東京大学教養学部と東京大学附属高等学校へ、尋常科は東京大学附属中学校へと再編され、学制改革が進んだ。

1922年4月の開校から1950年3月の廃校に至るまで、卒業生の総数は4007名だった。

年表

  • 1921年(大正10年)11月:7年制旧制高等学校(尋常科4年、高等科3年)として発足し、神田の旧外国語学校跡を仮校舎とする。初代校長は湯原元一。(=1回生)
  • 1922年(大正11年)4月:開校。尋常科の授業開始。
  • 1923年(大正12年)11月:中野の新校舎(現東京大学中野キャンパス)に移転。
  • 1925年(大正14年)4月:高等科設置。
  • 1928年(昭和3年)3月:初の卒業生を送り出す。(=1回生卒業)
  • 1945年(昭和20年):米軍空襲で校舎焼失。藤原正校長追放。
  • 1946年(昭和21年):尋常科1年生の募集再開。(=東京大学教育学部附属中等教育学校1回生)
  • 1947年(昭和22年):東京帝国大学が新制東京大学となる。翌年からの学制改革のため、高等科1年生募集停止。尋常科1年生募集停止。
  • 1948年(昭和23年)
    • 3月:21回生卒業。
    • 4月:GHQの指導による学校改革に伴い東京大学に包括され、六・三・三・四の新学制が始まり、尋常科の一部は「東京大学附属中学校」(現東京大学教育学部附属中等教育学校)へと再編される。1・2年生を東京大学附属中学校として募集し、旧制東京高等学校尋常科3年生を東京大学附属中学校3年生へと改組。
    • 5月:30日の入学式をもって、附属学校が実質的に発足。東京高等学校長に峰尾都治、校長代理に東京大学文学部教授・海後宗臣が任命される(東京大学は東京大学附属学校開設の予定で旧制東京高等学校尋常科1・2年を募集)。
  • 1949年(昭和24年)
    • 4月:中学校1年男子80名、女子40名の男女共学が始まる。尋常科4年生は学年進行により「東京大学附属高等学校」(現東京大学教育学部附属中等教育学校))1年生となり、新制の高等学校が発足し「日本初の共学中高一貫の形態」が始まる。これをもって東高は実質的に消滅 した。東京大学の付属学校であることと戦前から戦時中に軍国主義に激しく傾倒した日本一のエリート集団の記憶が生々しいGHQは、旧制東京高等学校のジェントルマン教育の流れを汲む中等教育のインテリジェンス集団育成への不安から入学者選別に対して東京大学の条件を受け入れず厳しい制約を課し、入学者は学力試験は行わずに公開抽選によるものとし、附属学校を一般の公立学校と同じ水準を保つ仕組みとした。(その制約は2007年までくじ引きによる入試が続いた。創立から100年の2021年を機に、ようやく入学者選抜試験の情報公開が開始されるようになる。)
    • 5月:東京大学教養学部設置。東京高等学校と第一高等学校から再編された。
      6月:学制改革に伴い旧制東京高等学校は、東京大学に包括され、高等科2年生は「東京大学東京高等学校」3年生となる。学校長に東京大学経済学部教授矢内原忠雄、校長代理に海後宗臣が任命される。
    • 11月:第1回文化祭を行う。
  • 1950年(昭和25年)
    • 3月:23回生卒業と同時に廃校
    • 4月:東京大学に教育学部が開設される。学校長に教育学部長高木貞二が併任となる。中学校1年男子40名、女子40名の2学級の編成となる(=東京大学教育学部附属中等教育学校5回生)。徽章、女子通学服が新しく制定される。
    • 9月:東高時報(生徒会誌)第1号を発行する。
  • 1951年(昭和26年)- 東京大学附属中学校及び東京大学附属高等学校は、教育学部に移管され「東京大学教育学部附属中学校・高等学校」と改称。
  • 1984年(昭和59年)- 東高記念碑を東京大学教育学部附属中等教育学校内に建立。「旧制東京高等学校址」の背面の由来文に「校舎は昭和二十年五月、東京大空襲で焼失。戦後の学制改革により(中略)東京高等学校は創立以来二十九年の歴史を閉じた。この間充実した教職陣のもと、本校は四千五十七名の『東高健児』を世に送り出した」と刻まれる。
  • 2002年(平成14年)- 東京高等学校創立80周年記念事業の一環として、東高記念館を東京高校同窓会から東京大学教育学部附属中等教育学校へ学習教室として若い世代への伝承を祈念し贈呈。10月末の東京高校同窓会会員数は1851名。
  • 2000年代の東京大学教育学部附属中等教育学校の秋の銀杏祭では「東高踊り」で知られる音頭「東高節」(大正15年制作)を、東京大学教育学部附属中等教育学校の生徒と同窓会生がともに踊る企画が続いた。
  • 2021年(令和3年)- 東京高等学校創立100周年を迎える。東京大学教育学部長 小玉重夫教授が東京大学教育学部附属中等教育学校入学式にて、設立から100周年の歴史と伝統について触れる。

歴代校長

校地の変遷と継承

東高校地(翠ヶ丘 / 翠陵)は東京府豊多摩郡中野町栄町通一丁目(現在の東京都中野区南台1-15-1)に位置し、米軍の空襲による校舎の焼失後は仮校舎(旧制一高の明寮(現在は廃寮)や旧中央航空研究所(現:東大三鷹国際学生宿舎)など)を転々としている間に学制改革・廃校を迎えることとなった。東高尋常科は東京大学教育学部附属中学校・高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)に転換され、校地も継承され現在に至る。東大附属の毎春の入学式の際には東京高等学校からの起源と伝統が学校長講話により新入生に継承され、校内には旧東高を記念するモニュメントや「東高記念館」が建立されている。また、かつての大成寮・野球場の跡地には東大海洋研究所が設置されていたが、2010年4月に柏キャンパスへ移転し、現在は総合教育棟と体育館が配置されている。

主な出身者

政官界

財界

学術・文化

脚注

出典

  1. ^ 秦郁彦「旧制高校物語」文春新書 より引用
  2. ^ 佐野眞一『人を覗にいく』p.155
  3. ^ a b c d e 東京高等学校 編『東京高等学校一覧. 第17(昭和17年4月-18年3月)』東京高等学校、1942年。NDLJP:1277215 
  4. ^ 北海道大学 編『北大百年史』 部局史、北海道大学、1980年、28-29頁。 
  5. ^ 星新一『きまぐれ暦』p.225
  6. ^ 戦後日本の統計行政 (PDF) - 法政大学
  7. ^ a b 『官報』第5664号、昭和20年11月28日。

関連書籍

尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照

関連項目

外部リンク





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