クビになった横綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:59 UTC 版)
1948年に吉田司家から横綱免許が授与されたが、前田山の性格から前代未聞となる但し書き付き(「粗暴の振る舞いこれありし、時には自責仕る可く候」とのこと)の免許状だった。横綱昇進後は休場が多くなり、横綱在位3場所目で2回以上の休場は昭和以降2人目という不名誉記録を作っている。1949年10月場所(当時の秋場所は大阪での開催だった)は初日の力道山戦に勝利しただけで5連敗を喫し、大腸炎を理由に休場・帰京した。 しかし、同年10月15日の夕方に協会へ休場届を提出して病院に戻ると思われた矢先、後楽園球場へ出向いてフランク・オドールと握手したほか、そのままサンフランシスコ・シールズと読売ジャイアンツの試合を観戦した。この時の写真が新聞に大々的に取り上げられ、ただの横綱ではなく二枚鑑札として師匠を兼ねる立場であったため、職権乱用の末の不祥事に非難が殺到、急遽帰阪した前田山は14日目以降の横綱土俵入りと千秋楽の取組の出場を希望したが全て却下され、さらに引退勧告を出されてそのまま現役を引退した(シールズ事件)。部屋の力士たちと草野球チームまで作るほどの野球好きが、結果的に仇となってしまった。 なお横綱在位6場所は、昭和時代以降に昇進した力士としては歴代1位の短命横綱だった。「クビになった横綱」として世間から嘲笑されたことから廃業して帰郷することを思い立つが、妻から「あなたがやることは弟子を育成すること、それが仕事でしょ。それができないなら死んでしまえ」と叱咤され、高砂部屋の親方として後進の指導にあたる。
※この「クビになった横綱」の解説は、「前田山英五郎」の解説の一部です。
「クビになった横綱」を含む「前田山英五郎」の記事については、「前田山英五郎」の概要を参照ください。
- クビになった横綱のページへのリンク