停戦とパリ条約の締結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:13 UTC 版)
「第四次英蘭戦争」の記事における「停戦とパリ条約の締結」の解説
詳細は「パリ条約 (1784年)」を参照 オランダは終戦までフランスとその同盟国とは正式な軍事同盟を締結しなかった。一方、アメリカとは1782年4月にヘンリー・ローレンスの後任であるジョン・アダムズの働きかけもあってスターテン・ヘネラールから国家承認が行われ、続いて10月には友好通商条約が締結された。これによりオランダはアメリカ合衆国を承認した2国目となった(1国目はフランス、3国目はスペイン)。アダムズはほかにもまだ重要性のあったオランダの金融市場で大規模な借款を行うことに成功した。 オランダはフランスのヴェルジェンヌ(英語版)外相が提唱した講和会議に参加した。しかし、オランダの要求はフランスの支持を得ておらず、フランスとその同盟国が包括的な講和条約を締結するとオランダの立場は維持できないことが明らかになり、オランダはやむなく包括的な講和条約が締結される直前に予備講和条約を締結した。またオランダは1783年1月の英仏間の停戦協定にも加入した。1783年から1784年のパリ条約によりインドのナーガパッティナムがイギリスに割譲され、セイロンがオランダに返還された。イギリスの商人が参戦した主な目的であったオランダ領東インドにおける自由貿易権の獲得も成功した。フランスがイギリスから再占領したオランダ植民地(一例としてはシント・ユースタティウス島があり、同島は1781年2月にロドニー提督によって占領されたが、フランスのド・グラス提督によって1781年11月27日に奪回された)もオランダに返還された。
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