停戦交渉と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:40 UTC 版)
ヒトラーの自殺後、遺言書でドイツ国首相に指名されたゲッベルスと、同じく党務担当大臣に指名されたボルマンの指示で、ソ連との和平交渉を任される。これはモスクワ駐在の経験とロシア語の知識を買われてのものだった。 5月1日午前2時、クレープスはベルリン防衛軍参謀長テオドール・フォン・ダフィング(英語版)と共に停戦交渉に向かい、午前3時50分にテンペルホーフ空港に近いシューレンブルクリング2番地の住宅に設けられたソ連第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフの司令部を訪ねる。クレープスはソ連軍の高級将校たちの居並ぶ中、自分が停戦交渉の全権を委任されていることを告げ、ヒトラーが自殺したために後継政府の準備に必要な停戦を要求するゲッベルスの書簡を読み上げ、新内閣の閣僚リストを手渡した。ヒトラーの自殺に驚いたチュイコフは、上官のゲオルギー・ジューコフに電話してヒトラーの死を報告した。報告を受けたヨシフ・スターリンは連合国間の合意事項を理由に停戦を拒否し、ドイツの無条件降伏を要求した。クレープスはソ連側の許可を得て総統官邸のゲッベルスに電話し、ソ連側の回答を伝えたが、ゲッベルスが無条件降伏を峻拒したために、12時間にわたるクレープスの交渉は無駄に終わった。トラウデル・ユンゲの証言によると、クレープスは「ひどく疲れ果て消耗した様子で」総統地下壕に戻って来たという。 総統地下壕に戻ったクレープスは、ボルマンに交渉失敗の責任を追及された。5月1日の午前中には地下壕から脱出する者が相次いだが、クレープスはブルクドルフと共に残った。ゲッベルス夫妻が自殺した後、午後9時半頃に2人は地下壕の倉庫で自殺した。ローフス・ミシュの証言から、クレープスは拳銃自殺したとされるのが一般的だが(映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』でもそのように描かれている)、5月8日に検死したソ連側の剖検報告書では彼が青酸カリで服毒死したとの結果が出ており、上記の証言と矛盾している。 その後、クレープスの遺体はヒトラー、エヴァ、ブロンディ、ゲッベルス一家の遺体と共にソ連軍により頻繁に埋葬地を変更された。最終的に埋葬されたのは1946年2月21日のことで、スメルシによってマクデブルクに埋葬された。しかし、1970年4月4日に当時のKGB議長ユーリ・アンドロポフの指示により掘り出され、遺体が入っていた木箱は焼却されエルベ川の支流に捨てられた。
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