アドルフ・ヒトラーの死
ヒトラーの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:51 UTC 版)
一方のヒムラーはプレーンに近いリューベックに移り、スウェーデンの外交官ベルナドッテ伯爵を通じた米英軍との停戦交渉を極秘に行っていた。しかし、この交渉は失敗に終わった。4月28日、ヒムラーの和平交渉の存在がBBC放送で全世界に公表された。ヒムラーの和平交渉を知ったヒトラーは激怒し、ヒムラーの解任と逮捕を命令した。さらにヒトラーは4月29日未明、総統秘書官のトラウデル・ユンゲに作成させた政治的遺書(英語版)でデーニッツを後継者に指名した。 ただし、デーニッツの地位は総統ではなく、ヒトラーが1934年に制定した国家元首法(ドイツ語版)により権限を吸収して以来空位となっていた大統領に、政権を握った1933年以来のポストだった首相にはゲッベルスを指名していた。また、この遺書ではゲーリング、ヒムラーを裏切り者として非難し、彼らを党から追放すると記してあった。その時、ゲーリングは既に全てのポストから解任されてオーバーザルツベルク駐在のSS部隊に身柄を拘束され、監視下にあった。一方、ヒムラーはデーニッツの元にいたが、彼はヒトラーにこのような宣告をされていたことを知らされていなかった。 4月30日午後3時半頃、ヒトラーはベルリンの総統官邸地下壕で夫人のエヴァ・ブラウンとともに自殺した。しかし、この時のベルリンはソ連軍の猛攻下にあり、総統官邸地下壕はほとんど孤立していたため、ヒトラーの死はすぐに外部に漏れることはなかった。
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