ヒトラーの戦争指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:52 UTC 版)
「ナチス・ドイツの軍事」の記事における「ヒトラーの戦争指導」の解説
第二次世界大戦の全時期を通じて、ヒトラーは前線に近い総統大本営から積極的に軍事指導を行った。ヒトラーは1940年に反対意見を退けてマンシュタイン計画を採用して勝利したことと、1941年冬の東部戦線危機で将軍達の退却勧告を退けて被害を最小限に食い止めたことで、自らの戦争指導に絶対の自信を持った。前線司令官の意見は尊重されず、戦術レベルでも総統大本営による決定が行われた。1942年以降は殆ど国内政治を顧みなくなっていた。ヒトラーは第一次世界大戦における一兵士としての経験と自らの偏った知識を強調し、さらに指導者原理による権威によって自らの意見を通した。一方で将軍たちに破格の「ボーナス」を与えることで、彼らの歓心を買おうとした。 ヒトラーは軍需品についても細部までの知識を有していたが、体系的な理解はしておらず、近代の複雑な科学技術の連携を理解できなかった。ヒトラーは1942年から1945年までの間に、「戦時経済会議」において2500の「総統決定」を行っている。ヒトラーは防御兵器よりも攻撃兵器を好み、迎撃機の生産よりもV2ロケットによる報復攻撃を望んだ。また戦車についても高速化より装甲化を好み、低速な重量型戦車を要求したが、実際に戦果を上げていたのは軽量で高速な戦車であり、1944年以降最も戦果を挙げたのは軽駆逐戦車ヘッツァーであった。
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