ヒトラーの副官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 10:26 UTC 版)
「ユリウス・シャウブ」の記事における「ヒトラーの副官として」の解説
1925年1月1日、ヒトラーの個人秘書に採用されたシャウブは、1945年までヒトラーの側近として重用され、総統主任副官のヴィルヘルム・ブリュックナーに次ぐナンバーツーの座を確立した。1940年にブリュックナーが失脚した後、代わって総統主任副官となり、第二次世界大戦の敗戦までその地位を保持した。 シャウブは、第3および第4回国会選挙で議員となった。1938年11月9日、シャウブの指揮下のヒトラー特攻隊は水晶の夜において、ミュンヘンのユダヤ人商店を破壊し、シナゴーグに火を放つなどのユダヤ人に対する迫害を開始した。ヨーゼフ・ゲッベルスの日記によれば、これらシャウブの仕事ぶりを「野蛮な連中だ」と酷評している。 1945年4月23日、ヒトラーは戦争の敗北を悟った後、総統地下壕内に保管された個人文書をすべて処分するようにシャウブに命じた。その後、ヒトラーはシャウブをベルリンからドイツ南部へ逃れるよう命じた。 この間にシャウブは、ヒトラーの文書の処分にあたっていた。シャウブはミュンヘンのプリンツレーゲンテンプラッツ(ドイツ語版)にあるヒトラーのアパートとオーバーザルツベルクにあるベルクホーフへ向かい、ヒトラーの金庫に保管されていたすべての文書を焼却した。 ドイツ降伏後の、1945年5月8日にシャウブはアメリカ軍に逮捕された。1949年2月17日まで様々な収容所に収容された後、非ナチ化裁判にかけられた。裁判において、アメリカの軍事法廷もドイツ当局も、シャウプが1933年から1945年の間に行われた犯罪に関与していたことを知らなかったので(例えば、水晶の夜に関与していたことなどは、2000年以降になってようやく判明した)、彼は「同調者」と分類されただけだった。 1953年、シャウブはヒトラーの御用写真家のハインリヒ・ホフマンと共に、とある裁判の証人として出廷し一時的に世間の注目を集めた。ミュンヘンで行われたこの裁判は、ヒトラーの遺品がヒトラーのミュンヘンにおける家政婦であったアンニ・ヴィンター(Anni Winter)によって不法に転売された問題に関してであった。晩年、シャウブはミュンヘンで薬剤師として働いていた。
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