ヒトラーの党首就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 13:00 UTC 版)
「国民社会主義ドイツ労働者党」の記事における「ヒトラーの党首就任」の解説
ヒトラーは、1921年3月31日に軍を退役し、以降党務に専念するようになっていた。 1921年6月初めから7月にかけてヒトラーはエッカートとともに『フェルキッシャー・ベオバハター』の資金集めのためにベルリンへ赴いたが、その間にドレクスラーと反ヒトラー派の党幹部たちが、ヒトラーが反対していたユリウス・シュトライヒャー率いるドイツ社会党との連携を模索した。この動きを知ったヒトラーは、7月10日にミュンヘンへ取って返し、11日にも党委員会に宛てて離党の手紙を書いた。これは党指導部には想定外のことで、ヒトラーを失うか、自分たちが退陣するかの選択を迫られた。さらにヒトラーは7月14日に自分が再入党する条件として、党委員会の即時辞職および独裁権限を持った議長の地位を要求した。一番聴衆を集められる稼ぎ頭の弁士だったヒトラーには自分抜きでは党は立ち行かないという自負があった。7月15日に党委員会はヒトラーの要求を受け入れ、7月29日にホフブロイハウスで開かれた臨時大会で554名中553名の支持を得てヒトラーが議長に選出された。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされた。 このころからヒトラーはエッカートやヘスといった自派の党員から指導者を意味する「Führer(フューラー)」と呼ばれるようになり、党内に定着した。やがてこれはヒトラー終生の肩書きとなった(総統を参照)。 ヒトラーは同年8月に従来のナチ党の会場警備隊を「体育スポーツ局 (Sportabteilung)」に改組し、エルンスト・レーム大尉の推薦で反革命義勇軍エアハルト海兵旅団のハンス・ウルリヒ・クリンチュ(ドイツ語版)元海軍少尉をその指揮官に任じた。同組織は9月に「突撃隊(Sturmabteilung, SA)」に改称された。突撃隊は共産主義者による党集会妨害を排除するとともに、他党の同種団体との街頭闘争において主力となる準軍事組織だった。突撃隊の幹部は禁止されたエアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。 またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日にヒトラーユーゲントの前身となるナチ党青年同盟が設立された。8月16日にはハーケンクロイツの党旗が公の場ではじめて用いられた。10月にはニュルンベルクのドイツ社会党が合流し、ますます党勢が拡大した。しかし11月18日にはプロイセン自由州においてナチ党が禁止され、ザクセン州、テューリンゲン州等でも禁止されたため、ナチ党の活動はバイエルン州に限られることになった。しかし、ドイツ国内の不景気とインフレはナチ党を含む極右急進派、共産党を含む極左急進派への支持をさらに高めた。また右翼的なバイエルン州政府も反ボリシェヴィキ的なナチ党を庇護する方針をとった。 1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州でも有数の政党になっていた。2月には、国軍が主導する極右派政党・義勇軍の連合「祖国的闘争同盟共働団」に参加し、有力な構成団体となった。このころから突撃隊の軍隊化が進められ始めた。
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