ヒトラーの代理人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:04 UTC 版)
「アルフレート・ローゼンベルク」の記事における「ヒトラーの代理人」の解説
1923年11月8日のミュンヘン一揆では、翌日の失敗に至るまでヒトラーと行動を共にした。ローゼンベルクは逮捕を逃れ、ミュンヘンの各地に潜伏していた。ヒトラーは収監後、ローゼンベルクに党指導を一任した。ローゼンベルクは大ドイツ民族共同体という偽装団体を立ち上げ、ナチ党の運動を再開した。しかしこの運動の実権はまもなくエッサーやユリウス・シュトライヒャーに握られ、ローゼンベルクの権力はほとんど無きに等しかった。1月31日にはザルツブルクの幹部会合で党指導者代理に指名されたが、ミュンヘンに残っていた幹部、エッサー、シュトライヒャー、アマンとローゼンベルクの関係は最悪であり、彼を「部分的ユダヤ人」や「フランスのスパイ」であると罵った。 このころ、党の問題となっていたのが、エーリヒ・ルーデンドルフのドイツ民族自由党との合併問題であった。ローゼンベルクは党の合併には反対したが、合法的な選挙によってナチ党の勢力拡大を図るべきと考え、選挙での協力関係を結ぶことには同意した。これらの運動の連合である「国家社会主義自由運動」は5月の国会選挙で200万近い票を集めることに成功した。しかしヒトラーは当初選挙にも反対しており、合併問題についても意見をはっきりさせないなど、ローゼンベルクの方針にはっきりとした同意を与えなかった。さらに6月16日にはヒトラーが「誰も自分の代理で行動したり声明したりする権限はない」と表明したことで、ローゼンベルクの党指導代理の地位は失われた。ローゼンベルクは反ユダヤ主義の新聞・雑誌の発行等の活動しか行えず、運動の主導権は他の幹部にすっかり奪われていた。ヒトラーは後にローゼンベルクがこの時期不忠であったと彼を激しく非難している。結局この体制は民族自由党との決裂と、ヒトラーの出獄によって終焉した。 1929年にはドイツ文化闘争連盟(ドイツ語版)を創設した。1930年には国会議員となり、外務委員会に属した。
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