ヒトラーの「最後の賭け」
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「バルジの戦い」の記事における「ヒトラーの「最後の賭け」」の解説
かねてよりドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、西部戦線での連合軍に対する反撃攻勢を夢想していた。ノルマンディーに上陸した連合軍は急進撃していたが、ヒトラーは、いつかは連合軍補給路が伸びきって、休息や再編成のため進撃停止しなければいけなくなると予想しており、その進軍停滞に乗じて防衛を固めても、守っているだけでは敵軍すべてをいつまでも防ぎきれるものではなく、むしろその時間的余裕を利用して大反攻の準備をすべきと決意した。ヒトラーは大反攻計画を1944年7月末より検討しはじめたが、その直前に発生したヒトラー暗殺未遂事件によって、国防軍への信頼感を失っており、この大反攻計画をごく一部の腹心の協力を得ながら、ヒトラー自らが立案、作戦指揮をしようと考えていた。ヒトラーは、フランスを進撃してくる連合軍はあくまでも寄合所帯であって、ドイツ軍が反攻してきても、その対応についてはアメリカ本国やイギリス本国との難しい調整が必要となって迅速な対応ができず、その間にドイツ軍は勝利の道を邁進できると判断していたが、これはヒトラーの認識違いで、連合軍はSHAEF司令官のアイゼンハワーが連合軍各国政府から全権を委任され迅速な対応ができる体制となっており、このヒトラーの誤認識がのちの作戦展開に大きな影響を及ぼすこととなる。 ヒトラーは作戦地域をアルデンヌに決定した。この地域はナチス・ドイツのフランス侵攻でドイツ軍が進攻した由緒あるルートで、なおかつ4年間の占領期間でドイツ軍は戦車などの軍用車両が急行できる道路を隅々まで熟知しており、連合軍に対し圧倒的に有利と考えたからであった。ヒトラーの作戦計画は、アルデンヌで順調な進撃で自信過剰となっている連合軍の隙をつき、スピードに物を言わせて攻め立てて、一気にアントワープを奪還するというものであった。アントワープはスヘルデの戦いの後に急速に整備され、ヨーロッパ戦線における連合軍の重要な補給港となっており、奪還することにより連合軍部隊の補給路を遮断し、その後に連合軍のアメリカ、イギリス、カナダ、フランス各軍を個別に撃破しようという、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥がナチス・ドイツのフランス侵攻のさいに行ったマンシュタイン・プランの縮小版のような計画であり、ヒトラーは1940年の怒涛の電撃戦による快進撃をもう一度味わいたいと願い、さらには、連合軍を海に追い落とす、「第二のダンケルク」の再現まで夢想していた。ヒトラーは短期且つ圧倒的な勝利によって、連合国の少なくとも1か国を戦争から脱落させ、一時的に強化された立場をもって、有利な講和に持ち込み、その後に全戦力を東部戦線に投入してソ連軍を粉砕できると考えていた。 1944年9月16日、ヒトラーはヴィルヘルム・カイテル元帥、アルフレート・ヨードル上級大将、ヴェルナー・クライペ(英語版)航空兵大将、ハインツ・グデーリアン上級大将の4人を招集すると、「わたしはいま重大な決心をした。私は攻勢に転じるつもりだ」「アルデンヌ地域を突破して、目標はアントワープ」とついに極秘裏に検討してきた作戦計画を打ち明けた。グーデリアンはヒトラーの作戦計画を聞くと、東部戦線から戦力を引き抜けば、同戦線に惨事をもたらすと抗議したが、ヒトラーはその発言を一蹴した。クライペは連合軍の空からの攻撃に現状のドイツ空軍では対抗できないと懸念を示したが、ヒトラーは作戦開始は11月であり、例年の悪天候で連合軍の航空機はまともに出撃できないとして、その懸念も一蹴している。ヒトラーはこの作戦指揮を西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥にとらせるとも述べた。ルントシュテットはフランスでの敗戦の責任をとらされて、一旦は西方総軍司令官を解任されていたが、ヒトラーはこの大作戦の指揮をとることができるのはルントシュテットの他にはいないと考えており、9月はじめに元の地位に復帰させていた。 しかし、ルントシュテット自身は、ヒトラーの計画を現実離れしていると考えて作戦に反対しており、より実現性の高い、アメリカ軍のアーヘン突出部を粉砕するといった限定的な反攻を計画しその準備も進めていたが、結局は、ヒトラーの命令通り、B軍集団ヴァルター・モーデル元帥と共に「ラインの守り作戦」の指揮をとることなった。ルントシュテットは作戦計画を聞くと「アントワープだって?とんでもない、もしミューズ川に到達できたらひざまずいて神に感謝すべき」と酷評している。作戦はヒトラーがと細部に至るまで一部の腹心と入念に練り上げたものであったが、のちに連合軍がこの作戦をあたかも自分が発案したかのように「ルントシュテット攻勢」と呼称していると知って立腹している。 最大の問題は戦力の準備であり、ヒトラーは作戦計画を国防軍最高司令部にも明かすと、「11月には攻勢を始められるように準備せよ。1~2か月のうちに25個師団を西部戦線に移動せよ」という命令を出し、国防軍最高司令部の将軍たちを驚かせている。ドイツ軍は1944年8月の1か月だけでも468,000人の兵士が死傷するなど、これまでの戦争で既に336万人の兵士を失っており、ドイツ軍精鋭師団の多くもこれまでの激戦で原型をとどめないほど小規模化していたので、ヒトラーの命令は実現不可能と思われていた。ヒトラーはこの戦力不足を解消するため、徴兵年齢の拡大、後方支援要員を戦闘部隊に編入するなどの策を講じて兵員を増員し、また連合軍による工場地帯への猛爆撃のなかでも、工場労働者の労働時間の延長や、政府機関要員を工場労働に従事させるなどの強引とも言える戦争指導によって、軍需生産は増大して空前の生産記録を達成し、ヒトラーの命令通り11月中には戦力の準備には目途をつけることができている。 作戦は当初計画では11月中の開始予定であったが、戦力の準備が遅延したことや、補給の問題も解決せずに2週間遅延していた。ヒトラーは作戦準備の遅さに激昂し、最終的な作戦開始を12月16日の05:30と決定して、各指揮官に徹底した。ヒトラーは作戦に参加する戦力として30個師団の投入を命じたが、実際に準備できたのは作戦に参加する精鋭約20個師団と予備5個師団の計25個師団となった。この時期の多くのドイツ軍師団はこれまでの激戦での損失で多くが定員割れを起こしていたが、作戦に投入される師団には優先的に補充が行われ、ノルマンディで可動戦車3輌にまでなっていた第2装甲師団(英語版) は、作戦開始には定数の14,000人の兵力となっている。主力戦車であったV号戦車パンターは、作戦に投入される8個戦車連隊の9月時点での配備数は合計でわずか62輌、戦車兵の充足率も55%に過ぎなかったが、12月16日の作戦開始時点では合計416輌、戦車兵の充足率も101%に回復していた。 また、作戦の主力となる第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」のパイパー戦闘団(フィンランド語版)には新鋭のティーガーII戦車が約20輌も配備された。練度の低い新編成の国民擲弾兵師団(en)もかき集めて投入されたが、兵員不足を補うため、通常の編成よりは自動火器(機関銃や短機関銃)の装備率が上げられていた。なかには第26国民擲弾兵師団(英語版) のように歴戦の歩兵師団を改編し、17,000人と通常の師団よりは多い兵員を割り当てられ、StG44アサルトライフルやパンツァーファウストなどの新兵器もふんだんに配備された精鋭師団も含まれていた。ドイツ軍の新兵器のなかではネーベルヴェルファーがその甲高い発射音でアメリカ兵に「金切声のミーミー」というあだ名を付けられて恐れられた。軍需燃料の不足も深刻さを増していたが、それまで備蓄していた予備燃料400万ガロン(1,500万リットル)を切り崩す許可をヒトラーが出した。しかしそれでも燃料不足が懸念されていた。
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