ヒトラーの「最後の賭け」とは? わかりやすく解説

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ヒトラーの「最後の賭け」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)

バルジの戦い」の記事における「ヒトラーの「最後の賭け」」の解説

かねてよりドイツアドルフ・ヒトラー総統は、西部戦線での連合軍対す反撃攻勢夢想していた。ノルマンディー上陸した連合軍急進撃していたが、ヒトラーは、いつかは連合軍補給路が伸びきって、休息再編成のため進撃停止しなければいけなくなると予想しており、その進軍停滞乗じて防衛固めても、守っているだけでは敵軍すべてをいつまで防ぎきれるものではなく、むしろその時間的余裕利用して反攻準備をすべきと決意したヒトラーは大反攻計画1944年7月末より検討しはじめたが、その直前発生したヒトラー暗殺未遂事件によって、国防軍への信頼感失っており、この大反攻計画ごく一部腹心協力を得ながら、ヒトラー自らが立案作戦指揮をしようと考えていた。ヒトラーは、フランス進撃してくる連合軍あくまでも寄合所帯であってドイツ軍反攻してきても、その対応についてアメリカ本国イギリス本国との難し調整が必要となって迅速な対応ができず、その間ドイツ軍勝利の道を邁進できると判断していたが、これはヒトラー認識違いで、連合軍SHAEF司令官アイゼンハワー連合軍各国政府から全権委任され迅速な対応ができる体制となっており、このヒトラー誤認識がのちの作戦展開に大きな影響を及ぼすこととなる。 ヒトラー作戦地域アルデンヌ決定した。この地域ナチス・ドイツのフランス侵攻ドイツ軍進攻した由緒あるルートで、なおかつ4年間の占領期間でドイツ軍戦車などの軍用車両急行できる道路隅々まで熟知しており、連合軍対し圧倒的に有利と考えたからであったヒトラー作戦計画は、アルデンヌ順調な進撃自信過剰となっている連合軍の隙をつき、スピードに物を言わせ攻め立てて一気アントワープ奪還するというものであったアントワープスヘルデの戦いの後に急速に整備されヨーロッパ戦線における連合軍重要な補給となっており、奪還することにより連合軍部隊補給路を遮断しその後連合軍アメリカ、イギリスカナダフランス各軍個別撃破しようという、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥ナチス・ドイツのフランス侵攻のさいに行ったマンシュタイン・プラン縮小のような計画であり、ヒトラー1940年怒涛電撃戦による快進撃もう一度味わいたい願いさらには連合軍を海に追い落とす、「第二ダンケルク」の再現まで夢想していた。ヒトラー短期且つ圧倒的な勝利によって、連合国少なくとも1か国を戦争から脱落させ、一時的に強化され立場をもって有利な講和持ち込みその後に全戦力東部戦線投入してソ連軍粉砕できると考えていた。 1944年9月16日ヒトラーヴィルヘルム・カイテル元帥アルフレート・ヨードル上級大将、ヴェルナー・クライペ(英語版航空兵大将ハインツ・グデーリアン上級大将の4人を招集すると、「わたしはいま重大な決心をした。私は攻勢転じるつもりだ」「アルデンヌ地域突破して目標アントワープ」とついに極秘裏に検討してきた作戦計画打ち明けたグーデリアンヒトラー作戦計画聞くと、東部戦線から戦力を引き抜けば、同戦線惨事もたらす抗議したが、ヒトラーはその発言一蹴した。クライペは連合軍の空からの攻撃現状ドイツ空軍では対抗できない懸念示したが、ヒトラー作戦開始11月であり、例年悪天候連合軍航空機まともに出撃できないとして、その懸念一蹴している。ヒトラーはこの作戦指揮西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥とらせるとも述べたルントシュテットフランスで敗戦責任をとらされて、一旦は西方総軍司令官解任されていたが、ヒトラーはこの大作戦の指揮をとることができるのはルントシュテットの他にはいないと考えており、9月はじめに元の地位復帰させていた。 しかし、ルントシュテット自身は、ヒトラー計画現実離れしていると考えて作戦反対しており、より実現性の高い、アメリカ軍アーヘン突出部を粉砕するといった限定的な反攻計画しその準備進めていたが、結局はヒトラー命令通りB軍集団ヴァルター・モーデル元帥と共にラインの守り作戦」の指揮をとることなったルントシュテット作戦計画聞くと「アントワープだって?とんでもない、もしミューズ川到達できたらひざまずいて神に感謝すべき」と酷評している。作戦ヒトラーがと細部に至るまで一部腹心入念に練り上げたものであったが、のちに連合軍がこの作戦あたかも自分発案したかのようにルントシュテット攻勢」と呼称していると知って立腹している。 最大問題戦力の準備であり、ヒトラー作戦計画国防軍最高司令部にも明かすと、「11月には攻勢始められるように準備せよ。1~2か月のうちに25師団西部戦線移動せよ」という命令出し国防軍最高司令部将軍たちを驚かせている。ドイツ軍1944年8月1か月だけでも468,000人の兵士死傷するなど、これまでの戦争で既に336万人兵士失っており、ドイツ軍精鋭師団多くこれまでの激戦原型とどめないほど小規模化していたので、ヒトラー命令実現不可能と思われていた。ヒトラーはこの戦力不足を解消するため、徴兵年齢拡大後方支援要員戦闘部隊編入するなどの策を講じて兵員増員し、また連合軍による工場地帯への猛爆撃のなかでも工場労働者労働時間延長や、政府機要員工場労働従事させるなどの強引とも言える戦争指導によって、軍需生産増大して空前生産記録達成しヒトラー命令通り11月中には戦力の準備には目途をつけることができている。 作戦当初計画では11月中の開始予定であったが、戦力の準備遅延したことや、補給の問題解決せず2週間遅延していた。ヒトラー作戦準備遅さ激昂し最終的な作戦開始12月16日0530決定して、各指揮官徹底したヒトラー作戦参加する戦力として30師団投入命じたが、実際に準備できたのは作戦参加する精鋭20師団予備5個師団の計25師団となった。この時期多くドイツ軍師団これまでの激戦での損失多く定員割れ起こしていたが、作戦投入される師団には優先的に補充が行われ、ノルマンディ可動戦車3輌にまでなっていた第2装甲師団(英語版) は、作戦開始には定数14,000人の兵力となっている。主力戦車であったV号戦車パンターは、作戦投入される8個戦車連隊9月時点での配備数合計でわずか62輌、戦車兵充足率55%に過ぎなかったが、12月16日作戦開始時点では合計416輌、戦車兵充足率101%に回復していた。 また、作戦主力となる第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」のパイパー戦闘団フィンランド語版)には新鋭ティーガーII戦車が約20輌も配備された。練度の低い新編成国民擲弾兵師団(en)もかき集めて投入されたが、兵員不足を補うため、通常の編成よりは自動火器機関銃短機関銃)の装備率が上げられていた。なかには26国民擲弾兵師団英語版) のように歴戦歩兵師団改編し、17,000人と通常の師団よりは多い兵員割り当てられStG44アサルトライフルパンツァーファウストなどの新兵器ふんだんに配備され精鋭師団含まれていた。ドイツ軍新兵器のなかではネーベルヴェルファーがその甲高い発射音アメリカ兵に「金切声ミーミー」というあだ名付けられ恐れられた。軍需燃料の不足も深刻さ増していたが、それまで備蓄していた予備燃料400ガロン(1,500リットル)を切り崩す許可ヒトラー出した。しかしそれでも燃料不足懸念されていた。

※この「ヒトラーの「最後の賭け」」の解説は、「バルジの戦い」の解説の一部です。
「ヒトラーの「最後の賭け」」を含む「バルジの戦い」の記事については、「バルジの戦い」の概要を参照ください。

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