ヒトラーの主治医
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 23:05 UTC 版)
「テオドール・モレル」の記事における「ヒトラーの主治医」の解説
ヒトラーは1936年の秋頃から、湿疹や絶え間ない放屁、胃痙攣、便秘、心臓の圧迫感に悩まされていた。当時のドイツ医学界のトップにあるドイツ赤十字病院院長のエルンスト=ロベルト・グラヴィッツなどの治療を受けていたが、疲労と心労によるものであり、根治はできなかった。エヴァによると、ヒトラーはこの変調を、母クララの死因と同じ癌だと思い込んでおり、「私はもうすぐ死ぬ」などと口走るようになったという。 病状を見かねたエヴァは、1936年12月24日にベルヒテスガーデンのベルクホーフでモレルをヒトラーに紹介した。診察し、丸薬を処方したところ、放屁や胃痛がなくなったため、ヒトラーは直ちにモレルを主治医として迎え入れた。しかし彼の薬にはストリキニーネ等の劇物が含まれており、依存性・習慣性の強いものであった。処方を受けてから2時間ほどするとヒトラーは再び体調の悪化を訴え、モレルはその度に薬を処方した。これを繰り返したため、ヒトラーの健康は徐々に蝕まれていった。 モレルはヒトラーが不調を訴えるたびに投薬や注射を安易に行った。このためヘルマン・ゲーリング国家元帥は、モレルのことを「国家注射マイスター(Der Reichsspritzenmeister)」といったあだ名で呼んだ。モレルをヒトラーに紹介したエヴァや秘書官のクリスタ・シュレーダー(ドイツ語版)といった側近たちは、彼に対して不信感を募らせるようになった。また、モレルは医師であるにも関わらず不衛生で体臭もひどく、テーブルマナーも悪く料理を食い散らかしたため、大変嫌われており、エヴァは彼の部屋を「豚小屋」と呼び、会うのを拒絶した。周囲の人物がこうした事に苦言を呈しても、ヒトラーは「私は彼を芳香剤として雇ったのではない、健康のために雇ったのだ」と言い、耳を貸さなかったという。 モレルはアルベルト・シュペーア軍需相やハインリヒ・ヒムラーSS長官といった高官の治療も行ったが、すぐに彼らは異変を感じ、治療を中断した。シュペーアは彼から薬を処方されたが、内容を怪しんで念のためにベルリン大学福祉病院のベルクマン教授に成分を調べてもらった結果、「非科学的、冒険的で習慣性の危険がある」と勧告された。彼はモレルの薬を飲まず、ベルクマンの指示に従ったことで短期間に回復した。シュペーアはモレルのことを藪医者とは思っていなかったが、総統の主治医という地位を得たことで、いい加減な治療をするようになり、医療行為より金に執着する人物だと後に回顧録で述べている。 主治医の地位を得たモレルは、1933年以来ヒトラーの主治医を務めていたカール・ブラントと、主治医のトップの座をめぐって競争を行った。しかしブラントとモレルが争うと、ヒトラーはたいてい後者に同調したという。 1939年、ヒトラーはチェコスロバキアの大統領、エミール・ハーハを総統官邸に呼びつけ、チェコスロバキア併合に同意するように恫喝した。ハーハは心臓発作を起こして倒れたが、モレルの注射によって蘇生した。蘇生したハーハはチェコスロバキアのナチス・ドイツへの併合に同意せざるを得ず、チェコスロバキアは消滅することになった。
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