ベルリンの孤立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 00:24 UTC 版)
4月22日午後3時、総統地下壕で作戦会議が開かれた。しかし、ベルリン防衛の不活発さに激怒したヒトラーは自殺をほのめかし、その意志はボルマンを始めとする幹部にも伝えられ、壕内の人々にも伝わった。カイテルとOKW作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将、ボルマンらが説得したためヒトラーの興奮は落ち着きを見せたが、カイテルらの避難勧告には応じなかった。同日午後8時45分、総統副官のカール=イェスコ・フォン・プットカマー海軍少将、ユリウス・シャウブ親衛隊大将、ヒトラーの主治医テオドール・モレル、秘書官のヨハンナ・ヴォルフ(英語版)とクリスタ・シュレーダー(英語版)などの職員が地下壕から退去し、オーバーザルツベルクにあるヒトラーの山荘「ベルクホーフ」に避難した。しかし、エーファや秘書官のトラウデル・ユンゲらはヒトラーの勧告にも関わらず、退去に応じなかった。一方、午後8時にはゲッベルスの夫人マクダとその6人の子が地下壕に入り生活するようになった。 4月23日、ヨードルから「ヒトラーの自殺意志」を聞いた空軍参謀総長カール・コラーが地下壕を脱出し、オーバーザルツベルクのゲーリングの元に向かった。これを受けたゲーリングは連合軍との降伏交渉を始めるべく、ヒトラーに総統権限の委譲を確認する電文を送る。激怒したヒトラーはゲーリングの全ての官職を剥奪し、逮捕と監禁を命じた。この日のうちにリッベントロップはドイツ北部に疎開し、翌4月24日未明にはシュペーアが地下壕から退去した。 この頃の地下壕の様子をシュペーアは「英雄気取りのゲッベルス、疲れ切ったヒトラー、権力闘争に燃えるボルマン、異常な多数者の中で、エーファだけが冷静であった」と回顧している。同日、ベルリンの北、ラインスベルク近郊ノイルーフェン基地にカイテルやヨードルをはじめとするOKWとOKHの人員が集まった。ヒトラーの許可を得てOKHの統帥任務は解除され、OKWがこれを吸収してベルリン防衛の指揮を取ることになった。 4月25日正午頃、ベルリン市は赤軍によって完全に包囲された。
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